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2016年6月22日 (水)

子供たちを「英語きらい」・「道徳きらい」にしないために、「究極のLOVE」を!

   

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子供達が健全に成長し、幸せな人生を送ることが出来るように、そのための24のキーワードをLOVEの文字に当てはめ「究極のLOVE」として集約しました(下記をご覧下さい)。

    

子供たちの英語教育道徳教育の参考になれば幸いです。

   

青色文字をクリックすると解説記事などがご覧になれます。

    

価値観は時代とともに変化します。礼儀などを教えることは大切ですが、子供たちそれぞれの個性と才能を生かす教育、多様性を受け入れる寛容の精神を養う教育が肝心です。SMAPの「世界に一つだけの花」はこの考えをに織り込んでいると思います。

  

いじめ」を防止する教育は必要ですが、「いじめ」や「登校拒否」を無くするためには「他の人の立場を理解し、多様性を認める寛容性と和の精神を教育することこそ肝心です。

現代の「和」の精神は戦前の「封建制度的な和」でなく、「平和憲法に基づく民主主義制度における和」が大切です。戦前の全体主義的・国家主義画一教育に逆流させてはなりません。絶対主義画一的教育は「いじめ」の温床になるでしょう。そればかりか、「国のためには戦争をすべきである」というアナクロニズムに陥る恐れがあります。

昔の戦争は素朴な武器の使用で被害も比較的に少なく、武士道の美談も生んだでしょう。だが、戦争は始まればそれを止めることは非常に困難なことは第二次世界大戦が証明しています。武器・技術が進歩し、核兵器のある現代では、局地戦争が核戦争を引き起こし、人類・地球の破滅をもたらすリスクがあります。

道徳教育で大切なことは、児童があくまでも自発的に物事を考え、自分の考えを主張すると同時に他者の考えにも耳を傾けることを学び、自己と他者、自己と社会との関わり合いを考え、自分の能力や個性を自分のためばかりでなく、社会に役立つようにするバランス感覚、合理的な思考能力などを培うことでしょう。

  

英語は、外国の人々との交流、スポーツや芸術文化の交流、国際的相互理解を深めるための手段です。日本人訛りのある英語でも国際交流をすることは可能です。スポーツや芸術文化を通じて国際的相互理解を深めることは、大学生や社会人になってからでも専門分野の英語を勉強すれば可能です。誰もが専門家のように流ちょうな英語が話せなくても、意思疎通が出来ればよいのです。

ネイティブでも方言や訛りのある英語をしゃべっています。

小学校の段階では、ネイティブのような英語をしゃべることを指導目的にするのではなく、まず日本語や英語などの言葉に興味を抱くようにすることが先決でしょう。そして、自分の言いたいことを言う勇気と自信を涵養する必要があります。そのためには低学年の英語教育は成績評価の対象にしない方がよいと思います。

   

英語教育や道徳教育を教科にして、「英語嫌い」や「道徳嫌い」を生む恐れのある「一方的な成績評価序列評価をすること」には反対です。

小学校教育においては、評価は子供の自尊心を生かし、やる気を出させるのに効果のある個別評価、教育効果を評価するための範囲に限定すべきでしょう。     

    

平和な社会が維持されることを祈りつつ書いた「究極のLOVE]は下記の通りです。  

・「L」は Love(愛する)・Learn(学ぶ)・Liberty(自由・権利)・Legality(合法性)、Laugh(笑う)・Life(生活一生)です。    

・「O」は Optimism(楽観・楽天主義)・Originality(個性・独創性)・Objective(目標・客観的)・Obligation(義務・義理)、Opportunity(機会・好機)・Organization(組織団体組織化することです。  

・「V」は Vitality(活力・元気)・Vision(ビジョン・先見性)・Venture(冒険・思い切ってする)・Value(価値・評価)・Volunteer(ボランティア・自発性)、Viewpoint(観点視点切り口です。  

・「E」は Effort(努力)・Enjoy(楽しむ)・Ethic(倫理・道徳)・Equity(公平・公正)・Endurance(忍耐・持続)・Each(個人・自己)です。 

   

「LOVE」を実践しよう! 「究極のLOVE」を実現しよう!  

我が国が全体主義に陥らぬように、住んでいる市や府県など、身近な「組織」に各自それぞれ働きかける積極性を持つことが必要です。普段から政治に関心を持ち、選挙があれば棄権をしないこと。特に若者は棄権をすると将来の幸福を追求する権利を放棄することになります。すべての点で自分が満足出来る政党や候補者はいなくても、最も自分の考えに近い政党や候補者に投票することが大切です。   

また、勤務先の会社など、「組織」の長や他の人々と違う考えであっても、長い目で見ると自分や組織のためになるという信念があることは積極的に進言し、実現する努力が欠かせません。

幸せな一生を過ごすには、一個人としての「自分」と「組織」の一員としての「自分」とのバランス、「個」と「全体」の「関わり合い」を考え、「過去」をベースに「未来」を見据え、「現在」に「視点」を置いて、よく考え、行動することが大切です。そして、視点を「自己家族市民国民地球人」など、様々な視座に置いて相対的に考えることです。

「自分一人ぐらい・・・」とあきらめるのではなく、「自分一人でも・・・」と前向きに考え行動することです。「一人一人の思いや行動」が組織・社会・国を動かしていくのですから。 

        

・Love(愛)

親子の愛、男女の恋愛、夫婦の愛など人に関する愛のみならず、動物、自然、故郷、住んでいる町や国、平和、自分の仕事など全てが対象です。まず自分を愛し、自分のしていることを愛し、その結果が他者への愛、すべてのものに対する愛につながることが理想です。 

    

・Learn(学ぶ)

教師や反面教師として、全てのことから学ぶことが出来ます。

身近な両親、兄弟姉妹、友達、先輩・後輩、先生などから直接学ぶことが沢山あります。書物や新聞・ラジオ・テレビ、インターネットなどで地域と時代を超えて様々なことを学ぶことができます。また、自分自身や他人の失敗や成功の実例から学ぶことも大切です。   

  

・Liberty(自由・権利)

基本的人権として思想・言論・信教の自由などが憲法で保障されています。しかし、自由の権利を乱用すると、自由を失う恐れがあります。常に権利と義務、個(自分自身)と全体(社会・国)、公平・公正の原則とのバランスを考慮することが肝要です。多くの若者が選挙権参政権の行使を放棄していることは幸福を追求することを放棄していることになるのではないかと危惧しています。  

   

・Legality(合法性)

誰でも自由に考えて行動すれば良いのですが、それが法律に適っていることが前提です。法律は人々の生活を守り社会の秩序を維持するためのものですから、日常生活で余り難しく考えることは無いでしょう。しかし、何か特別のことを始める時にはそれが合法的かどうかチェックすることも必要でしょう。  

    

・Laugh(笑う)

笑う門には福来たる」(「Laugh and get fat.」「Fortune comes in by a merry gate.」)です。

泣きたいときには泣くとよいでしょう。でも、辛い時でも笑顔を忘れずに前向きに過ごして行けばきっと良い時も来るでしょう。  

   

・Optimism(楽観主義)

人間万事塞翁が馬」(Joy and sorrow are today and tomorrow.)、「人生は山あり谷あり」、「努力をすれば何とかなる」、「人事を尽くして天命を待つ」と楽観的に考えることです。いわゆるプラス思考・ポジティブシンキング(positive thinking)を実践することです。        

   

・Originality(個性・独創性)

世界に一人しかいない自分という貴重な存在を活かしましょう。単なる「猿真似」や「迎合」ではなく、人それぞれに出来ること・天性・個性を生かして、学んだことを更に発展させ実践することです。現代は多様性の時代です。様々な個性が集まって全体の調和が生まれることが理想です。 

      

・Objective(目標・客観的)

将来何をするか自分の目標を定める際に、それを達成することが可能か、楽観的に考えると同時に、冷静に客観的に評価しておくことも大切です。高い目標を掲げることは良いのですが、目標は高ければ高いほど成果の高望みをしないでstep-by-stepで一歩ずつ前進することです。  

    

・Obligation(義務・義理)

「世の中は持ちつ持たれつ」、「お互い様」です。自己の権利を主張するばかりでなく、義務もあることを認識して他者の権利・立場も認め、自他のバランス(Give-and-take)を考えることが大切です。

      

・Opportunity (機会・好機)

好機逸すべからず」です。英語のことわざには「Now or never.」とか「Everything has its time.」などがありますが、機会をとらえTPO(時と場所と場合)を考えて適切な行動をすることが大切です。 

   

・Vitality(活力・元気)

何事もやる気と元気がなければ達成出来ません。精神的にも肉体的にも健康を維持することが大切です。「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。時には無理が必要なこともあるでしょうが、頑張りすぎないで、自分の出来る範囲でやれば良いでしょう。

   

・Vision(ビジョン・先見性)

「憲政の神様」と言われた尾崎行雄は「人生の本舞台は常に将来に在り」と言っています。自分は何をしてきたか、今何をすべきか、自分の将来の目標は何か、自分の人生のどの時点でも、常に過去・現在・未来という流れの中で自分自身と社会の将来を見据えて考え・行動することが理想です。

   

・Venture(冒険・思い切ってする)

慎重に考えて行動することも大事ですが、難しいと思うことでも時には思い切ってやって見ることも必要でしょう。成功するか否かは自分の才能や努力のみならず運に左右されるものです。最もうまく行く場合と最悪の場合とを考え、腹を据えて思い切って行動すると良いでしょう。

   

・Value(価値・評価)

価値観は人によって異なりますが、自分にとって何が大切か、何をしたいか、それは自分のためだけではなく、親のためや人のために役立つことになるか、と考えながら目標を立て・行動することが大切です。

   

・Volunteer(ボランティア・自発性)

何事でも自分のしたいことをするときは苦労が苦労でなく、楽しくなります。最近はボランティア活動をしている若者も沢山いることはありがたいことです。自分が出来ることを自発的に行い、自分のみならず人のためにもなり、世の中に役立つことができれば最高です。

   

・Effort(努力)

天賦の才に恵まれていても努力をしなければその才能を生かすことは出来ません。ささやかな才能であっても努力することによって、それを伸ばすことが出来ます。大切なことは他者との比較や序列・勝ち負けそのものではなく、それを励みとして自分自身の天分を育てる努力をしているかどうかです。 

   

・Enjoy(楽しむ)

努力も色々工夫しながらすると、苦労でなく楽しみとなります。楽しみながらすると努力を続けることが出来ます。少しでも努力の成果が出ると楽しくなります。すぐに成果が表れなくても長い目で見れば必ず成果が出て来るものですから、それを楽しみに努力を続けることです。

   

・Ethics(倫理・道徳)

技術が高度に発達し専門化している現代社会においては個人や組織が倫理を大切にして活動することが不可欠です。最近の世相をみると、長い間に築いた信用を倫理観の欠如から一瞬に失い、自滅するだけでなく社会に大きな弊害をもたらしている例が少なくないことは残念なことです。

   

・Equity(公平・公正)

才能や努力の成果を生かすには考え方や行為が公正であることが大切です。どのような場合でも公正かどうかという観点でチェックすることが望まれます。公明正大な振舞いをすることによって明るい気持ちが維持できます。明るい気持ちは必ず幸福を呼び込むでしょう。   

   

・Endurance(忍耐・持続)

豊かな現代社会においては何でも簡単に出来、手に入るので誘惑が多く、我慢することが難しくなっています。

ITSNSが発達し便利になっていますが、スマホによるゲームの氾濫や不適切な交流サイトなど、子供の教育や十代の若者の新たな社会問題になっています。  

三つ子の魂百まで」、「継続は力なり」です。大きくなってから抑えることは難しくなりますので物心が付き始めた幼い時から我慢することのしつけもしておくと良いでしょう。 

   

上記のことは、ご存知のことばかりでしょうが、それをLOVEという親しみやすく大切な一語に集約して覚えやすくしたのが味噌です。LOVEを実践する人々が増え、住みよい社会が日本から世界に広がることがチュヌの主人の念願です。    

「究極のLOVEを実践しよう!」の抄訳英語版はココをクリックしてご覧下さい。

                  

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2015年6月 7日 (日)

チュヌの便り <更新情報> Message from Chunu <What's up?>

     

(2022.9.11)

秋暑し9.11のクリーンデー」や著名俳人の季重なり俳句集」をご覧下さい。

   

2015年4月の更新記事 

俳句談義(14): 

俳句の片言性と二面性(改訂版)

     

俳句談義(13):

<「花」と「鼻」> 高浜虚子と芥川龍之介

  

俳句談義(12):

「椿寿忌」の俳句と高浜虚子

   

2015年3月の更新記事

俳句談義(11):

「甘納豆」と「おでん」と「俳句」

この記事には高浜虚子の「俳句の作りよう」や「俳句への道」の全文が掲載されたサイトをリンクしています。

       

俳句談義(10):

高浜虚子の「雛」の句を鑑賞する

       

俳句談義(9): 

「雛祭り」の俳句を集めました

                    

2015年2月の更新記事

俳句談義(8):

高浜虚子の俳句「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」

<虚子の対話の相手は誰か?>

     

俳句談義(7):

高浜虚子の句「爛々と昼の星」の星とは何か?(続編)    

   

俳句談義(6):

高浜虚子の句「昼の星燦々と見え菌生え」の「星」や「菌」は何か?

      

先輩の川柳(続2)

「昭和や」の酔客のエッセイ:

素粒子論と般若心経と高浜虚子の俳句

     

俳句談義(5):

戦時中の高浜虚子・文芸家としての良心

    

俳句仲間のエッセイ: 「俳句と川柳」

        

後藤健二さんの死無にするな!

政治家やマスコミの言わないことを言う。

              

2015年1月の更新記事 

俳句談義(4)

高浜虚子の句「大寒の埃の如く人死ぬる」とは、平和を考える

         

本との出会い(7): 

「俳句の力学」と虚子の句「去年今年」

       

(三田深田公園にて)    

ホロンピア館は、昭和63年に開催された21世紀公園都市博覧会のシンボルとして建設。

建築家・丹下健三氏が設計した深田大橋をビルにしたもの。平成4年秋に「人と自然の博物館」となりました。

「三田八景」の解説より引用)

    

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(俳句)

稚児走る初凧這ひてくるくると

  

七転び八起き幼の上がる 

   

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淑気映ゆホロンピア館玻璃の壁

(「玻璃の壁」をクリックすると、「我が街『三田』」をご覧になれます。)

  

初空童の好きな丘の街

  

(川柳)

三田から地方創生子等元気

          

・初雪にサモエド勇み飛び出せり    

・初雪や己が天下とサモエド犬   

  

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(チュヌの写真)

    

      

   

俳句・フォトアルバム(トルコの旅)

Pictures & Haiku (Trip to Turkey)  (英訳追加版)

         

本との出会い(6):

「虚子俳句問答(下)」と「大悪人虚子」        

   

俳句談義(3): 

虚子の句「初空や」の新解釈:大悪人は誰か?     

         

2014年

2014.12.25 

虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」の棒とは何か?

 (この記事に夏目漱石の「草枕」がリンクされています。)

    

 14.12.20

 本との出会い(5):

「俳句の宇宙」と「大悪人虚子」

(「虚子俳話(序文)」や「俳談」がリンクされています。)

エッセー
 14.12.10  奈良吟行の俳句アルバム  俳句
 14.12.09

 本との出会い(4):

「悪党芭蕉」と「大悪人虚子」(その2)

 エッセー
 14.12.08

 本との出会い(3):

「悪党芭蕉」と「大悪人虚子」(その1)

 エッセー

    

      2014年11月の主要記事
 俳句談義(2) 虚子辞世句の新解釈について
 俳句談義(1) 虚子辞世句の解釈
「本との出会い」(2) 尾曲がり猫と擦り猫と」を読んで選挙を考える。
「本との出会い」(1) あの海にもう一度逢いたい
 お友達のエッセー 忘れ得ぬ最高の思い出
 吟行俳句 奈良公園・柳生の里(俳句と写真・俳句アルバム
        2014年10月の主要記事
 俳句仲間

アカネヤの酔客のエッセー(3)「絵を描く」

可愛い猫の画や写真が驚くほど沢山ご覧になれます。

 俳句仲間 アカネヤの酔客のエッセー(2)「近況報告VI」
 俳句仲間 アカネヤの酔客のエッセー(1)「ラジオを録音して聞く話」
                        2014年3月~9月の主要記事
 教育・エッセー

「LOVE」を実践しよう!

Let's practice "LOVE"!

 俳句

花鳥6百号記念全国俳句大会に参加 (俳句と写真)

 俳句の英訳と

 Haikuの和訳

芭蕉の句「古池や」の英訳を考える

言語の壁を破るチャレンジ(1)(14)

 投稿川柳の紹介 先輩の川柳・お友達の川柳

 俳句と川柳の英訳

(エッセー)

スウェーデン大使館開催の俳句・川柳コンペティション入選

 俳句・HAIKU

(エッセー)

国際俳句交流協会総会に参加~

「日本人らしさの発見」・・・

 吟行の俳句と写真 南禅寺 ・ 住吉大社 ・ 満願寺 ・ 平安神宮

俳句・フォトアルバム (HAIKU Photoalbum): 

  「イタリアの旅・Trip to Italy」

  「東欧の旅・Trip to E. Europe」

  「ロシアの旅・Trip to Russia」

   

チュヌの俳句:「四季・Four seasons

    

「平和」について考える宗教と科学の融合

     

2014.5.25 オープンーデン・ミニ・チャリティコンサート

               

       

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 インターネットは凄いね!

「ちゅぬ」の北海道時代のお友達のブログを主人が見つけてくれたよ。

北海道時代は若くて元気だったから楽しかったよ!

懐かしいね!

   

ややコロ日記

(ちゅぬ君とコロちゃん)

http://yayakoro.exblog.jp/m2008-06-01/

         

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2015年5月31日 (日)

俳句談義17: 高浜虚子の俳句「敵といふもの」の「敵」とは何か?《俳句談義と政治談議》

                     

高浜虚子は「敵といふもの今は無し秋の月」という句を終戦の年に作っている。

掲句の「敵といふもの」は何を意味するのだろうか?

少なくとも二通りの解釈が出来る。

文字通りの解釈は、「太平洋戦争における敵」である。

もう一つの解釈は「『鬼畜米英』と喧伝する者」である。

   

戦中は、戦意高揚や本土決戦に備えるために女性も藁人形を相手に『鬼畜米英』と叫びながら『竹やり訓練』をさせられた。

当時は反戦的なことを言うと「売国奴非国民敵のスパイなどとレッテルを貼られ、憲兵に逮捕されることを恐れたのである。「そんなことを言うと憲兵が来る・・・」と子供心に心配して祖母の愚痴に注意をしたことなどを思いだす。

    

安倍さんは朝日新聞の記者の質問「就任後初の参拝。どのような思いで参拝しましたか。」に対し、次のように答えている。

「本日、靖国神社に参拝した。日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、そして御霊(みたま)安かれ、なれと手を合わせて参りました。・・・(省略)・・・不戦の誓いをいたしました。」(2013.12.26

      

安倍さんも「日本のため」を思って「不戦の誓い」をしたに違いない。

だが、その「不戦の誓い」が実現する保証はないのだ。

靖国神社に祀られている当時の指導者・戦争責任者の「日本のために」という強い思いが戦争を引き起こし、多大の犠牲を生じたことは歴史が証明している。                       

   

自民党のホームページに「不戦の誓いを守り続ける そして、国民の命と平和な暮らしを守り抜く 平和安全法制」とある。この趣旨・目的には誰も反対しないだろう。

大切なことは「法律がその趣旨・目的に名実ともに合致していること」である。法律は条文が一見して問題が無くても、実際に適用する場合に問題が生ずるような曖昧なものであってはならない。 

   

「平和安全法制の整備のための法案」について「本当に大丈夫なの?」と懐疑的な人が多いだろう。日中戦争太平洋戦争犠牲者など戦争の悲惨さ・無意味さを知っている人は特に懐疑的になるだろう。

自民党公明党協力を得て、『平和安全法制の整備のための法案』によって実質的に憲法を改正しようとしている。」と不安に思っている人は多いだろう。

   

5月28日に開催された「平和安全保障委員会」の衆議院インターネット中継を見ると、安倍さんは「丁寧に説明している」と言いながら、無駄な繋ぎの言葉や形容詞を付けて長々と早口で発言しているから、何を言っているのか分からない。

真摯に国民の理解を得ようとしているとは思えない。

集団的自衛権を行使する判断基準となる「存立危機事態」とは何か?

一例や抽象的な説明の繰り返しを何度されても理解できない。

存立危機事態」の具体的な事例を挙げて、議論をすることが大切である。

具体的な例を挙げると国際的・政治的に支障が生じるというが、本当にそうだろうか?

どういう支障が生じるのか? まさか、「本音がわかっては困る」というのではないでしょう?

具体的に事例を挙げてこそ、「文字通り平和の維持・自衛のために武力行使をする」ための法改正であることの内外の理解が得られるのだ。

考えられる限りの事例を列挙し、誤解の生じないようにすべきである。武力行使の可能性の透明性を法律の条文に織り込んでこそ平和憲法下の法改正であるという信頼が確保できるのだ。

「今は具体的な事例が考えられない」とか、「今は実例として予想できるものが無い」というのであれば、急いで法改正をする必要が無い。そればかりか、「『平和安全法制』によって平和憲法を形骸化し、戦争ができるようにしようとしている」と判断されても仕方がないことになる。

「平和を維持するための武力行使、あるいは、自衛のための武力行使」が生ずる場合の事例を明確に例示して、内外の理解を得ることが先決である。

重要影響事態」の判断基準を明確にするためには、具体例を挙げる必要がある。安倍さんは「客観的・合理的に判断する」というが、そんなことはいうまでもないことである。「主観的・非合理的に判断する」というバカな指導者がいるだろうか? 安倍さんの崇拝する太平洋戦争当時の指導者も客観的・合理的判断をして戦争に突入したのではなかったのか? 

            

安倍さんは、今までのような国会審議で「国民のために丁寧に説明している」と本当に思っているのだろうか? 国民をバカにしているか、国会における審議を軽視している、などと言わざるを得ない答弁が多い。

野党は反対のための反対や挑発・揚げ足取りをするのではなく、冷静に実質的内容のある審議をするよう与党にもっと働きかける必要がある。

野党議員の今のような質問の仕方や与党議員の答弁の仕方では、国会審議の実のある成果が期待できない。

与党は「『丁寧な説明』と称して無用の抽象的美辞麗句を繰り返しておれば、時期が来れば多数決で原案どおり採択できる」と思っているのではないか?

いずれ多数決で法案が採択されることになるのであれば、野党のすべきことは、「与党の法案を修正し真に国民のためになる法律にする」ことである。反対のための反対をして審議をボイコットしているようでは国民の信頼を得られない。国民が納得できる国会審議を推進することが肝要である。国民が納得できる野党の要求を無視して、与党が強引に法改正の採択をすれば、次期選挙で野党が信任を得て政権を取ることになるだろう。

          

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2015年5月20日 (水)

俳句談義16:「こどもの日」・「母の日」に思うこと。

        

(P.S. 2024.5.5)

こどもの日老もお子さまランチ愛で

得意げに口真似する子こどもの日

奔放にゲーム作る子こどもの日

       (薫風士)

    

(2015.5.20)  

子供の日」と「母の日」にブログを書こうと思っていたが、「俳句談義(15)」で高浜虚子の俳句やオバマ大統領の俳句など、次々に書きたいことを思いつき、安倍首相の米議会における名演説に触れると「政治談議」にもなり日が過ぎてしまった。

お暇があればここをクリックして「俳句談義(15)」を是非ご高覧下さい。

   

歳時記の「こどもの日」の俳句は196句あり、鯉幟」は352句、鯉のぼり」は195句あったが、その中に、戦時中の母親の苦労を思い起こさせる句がある。

  

あの頃も生めよ殖せよ鯉のぼり 

         (木島茶筅子)

  

歳時記の「母の日」(「母の日1母の日2母の日3母の日4母の日5」)には合計約490句もある。

   

その中で有馬朗人氏の俳句が興味を惹いた。

  

母の日が母の日傘のなかにある

   

高浜虚子は「おやをもり俳諧をもりもりたけ忌」という句を作っているが(「俳句談義(11)」参照)有馬さんの掲句の「母の日」も一種の「掛詞(かけことば)」であり、「同音異義語」・「同綴(どうてつ)異義語(いぎご)」の言葉遊びだろう。

  

有馬さんの掲句は、文字通りに解釈すると、「母の日」のプレゼントに日傘を贈ったことを詠んだ俳句かもしれないが、「母の日」に、「『母』という『日』すなわち、『私の太陽』ともいうべき「母」が『日傘』の中にいる。」という句意だろう。

もっと穿った解釈をすれば、「『母』なる『母国・日本』は『日米安保条約』に基く『』という『日傘』の中にある」という隠された句意があると言えるのではないか?

「バカなことを言うな」と御叱りを受けるかもしれない。

だが、「俳句談義(6)などで何度も述べているように、「『俳句の解釈』は『創作である』」と思って書いている。ご容赦頂きたい。

   

有馬さんは東京大学の総長や文部大臣科学技術庁長官などの要職を務められた。現在、国際俳句交流協会会長でもあり、俳句を国際的に広め、世界文化遺産に登録されるように努力をされているようである。

俳句に限らず、文化交流を通じて親日家が世界に増え、日本の平和・世界の平和が維持されることを祈っている。

だが、ただ祈っているだけでは望みは叶えられない。

次回は「政治談議」を主にブログを書くことにしたい。

 

(注)

「国際俳句交流協会」は、2022年12月に名称が変更され、「国際俳句協会」となりました。

   

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2015年2月28日 (土)

俳句談義(5):戦時中の高浜虚子・文芸家としての良心

              

2月11日は「建国記念の日」であり、2月22日は高浜虚子誕生日である。

今回は戦時中における文芸家・俳人としての虚子の良心の在り方について考える。

    

(青色文字をクリックして関連の解説記事をご覧下さい。) 

俳句は好き好き、人も好き好き」である。

俳句第二芸術と言った桑原武夫昭和五十四年四月号の『俳句』(角川書店)において、「虚子についての断片二つ」という記事に次のとおり述べている。   

「アーティストなどという感じではない。ただ好悪を越えて無視できない客観物として実に大きい。菊池寛は大事業家だが、虚子の前では小さく見えるのではないか。岸信介を連想した方がまだしも近いかも知れない。この政治家は好きな点は一つもないが」

   

桑原武夫の批評はともかくとして、高浜虚子は深慮遠謀ホトトギス俳句王国を確立したという点で「俳界における徳川家康だった」という気がする。

      

ドナルド・キーンさんは高浜虚子の戦時下の俳句について、日本文学』において次のように述べている(抜粋「mmpoloの日記」参照)

「虚子の保守性は一部の俳人を遠ざけたが、同時にまた多数の俳人を『ホトトギス』派に引き寄せた。こうして、『ホトトギス』は全国に広まり、俳句は20世紀の日本の生活と文学におけるさまざまな変化にもかかわらず、生きのびることができたのである。

・・・(省略)・・・

戦時中の虚子の作品は、当時の他の文学の病的興奮とは対照的に落ち着いた、超越したものだった。

              

虚子俳句問答(下)実践編」(稲畑汀子監修・角川書店発行)を見ると、「戦時下の俳句」という章に読者の質問と虚子の回答の記載があるが、戦時中の虚子の俳句に対する考え方や戦争に対する姿勢の一端がわかる。次にその幾つかを抜粋して記載させて頂く。

      

(質問)

現下の如き非常時局下に暢気(のんき)に俳句でもあるまいと・・・(省略)・・・悩んでいる・・・(省略)・・・ご教示願いとう存じます。(奈良 吉本皖哉 .2 

回答

俳句は他の職業に従事している人から見ると、慰楽の為に作るとも考えられるのでありまして、御説のような感じの起こるというのも、ご尤も(もっとも)でありますが、・・・(省略)・・・画家が画を描き、文章家が文を属し或は俳優が演技するのと一般、少しも恥ずるところはないのであります。・・・(省略)・・・現に戦地にある人々も、干戈(かんか)の中で俳句を作って、送って来ておるではありませんか。

   

(質問)

ホトトギスの雑詠に従軍俳句が相当たくさんある様になりました。戦争という特殊な境地をうとうたものは、所謂(いわゆる)戦争文学として雑詠より分離して別に纏め(まとめ)られたらと思いますが、如何でしょうか? (大阪 中村秋南 昭.9 

回答

戦争文学として、これを特別に取り扱うことは親切なようであって、返って不親切になる結果を恐れるのであります。雑詠に載録する位の句でなければ、戦争俳句として取り扱うことも如何かと、考える次第であります。

    

(質問)

文芸報国の一端として今回の事変発生以来、ホトトギスに戦地より投句したる戦争俳句、内地よりの事変に因む銃後俳句のみを蒐集(しゅうしゅう)し、これを上梓(じょうし)しては如何。好個の記念になると思う。(大阪 行森梅翆 昭.9  

回答

上梓するのは、事変が落着して後の方がよかろうと思います。

     

(質問)

最近の新聞に()りますと、虚子先生を会長に俳句作家協会が生まれます由、俳壇での新体制についてご指導に預かる私どもの句作上について、何か心構えとでもいう事はございませんのでしょうか。(大分県 三村狂花 昭.16.2  

回答

重大な時局下にあるということを認識した上で、(ただ)佳句を志して従前通りのご態度でご句作になれば結構だと思います。

      

また、「添削」の省の「誇張せず自然に」という項では戦時下の俳句について次のような質疑応答がある。

   

(質問)

「兵送る初凪や埠頭旗の波」「兵送る初凪埠頭や旗の波

何れが句として調っておりますか。・・・(省略)・・・(沖縄 大見謝雅春 昭.13.3

回答

こういう場合は「旗の波」は割愛してしまって、「初凪の波止場に兵を送りけり」とでもするより他に仕方がないでしょう。少し平凡ではありますけれども、それに旗の波を加えたところで大して斬新な句になったというでもありません。(むし)ろ、格調のととのった方がよろしいと思います。

         

チュヌの主人のコメント

この質問・回答の掲載された前年昭和12年には軍歌「露営の歌」が大ヒットしたそうである。

この歌の歌詞には「進軍ラッパ聞くたびに瞼(まぶた)に浮かぶ『旗の波』(1番)」という文句があり、

「馬のたてがみなでながら明日の命を誰か知る(2番)」

「死んで還れと励まされ覚めて睨(にら)むは敵の空(3番)」

「笑って死んだ戦友が天皇陛下万歳と残した声が忘らりょか(4番)」

「東洋平和のためならばなんの命が惜しかろう(5番)」

など、戦争を謳歌・賛美して戦意を高揚させ若者を駆り立て死に追いやった文句が並んでいる。

虚子はこの軍歌を連想させる「旗の波」を俳句に詠むことを良しとせず、「初凪の波止場に兵を送りけり」と、「出征して行く若者のことを思いやりながら送り出すしみじみとした俳句」にすることを教えたのである。

「初凪」と「送りけり」が呼応して出征兵士の無事を祈る気持ちが感じられ、戦意高揚を謳う原句とは全く正反対のニュアンスがある。

八紘一宇」「東洋平和のため」「大東亜共栄圏のため」にとその理想的な目的を純粋に信じてその実現に命をささげた若者も多くいただろう。

その意図に反し戦争に伴う非道な行為もあったことは全く残念なことである。筆舌に尽くし難い戦争の悲惨・犠牲・被害を思うと黙しているわけにはいかない。    

現在もテロとの戦いウクライナ停戦問題など国際情勢は常に流動的であり、有事の備えをし、且つ、平和主義を徹底する基本的な政策が必須である。安倍首相は「積極的平和主義」に基ずく外交を推進しようとしているが、「真に世界平和の実現に寄与するにはどうすればよいのか」集団的自衛権の行使はどうあるべきか」与党野党が時間をかけて議論して国民の理解・合意を得るようにしてほしい。国民の理解を得ずして外国の理解を得ることは期待できない。

日中戦争太平洋戦争の犠牲となった人々のことを思い、墨塗り教科書で勉強をした戦中・戦後の体験者として戦争を知らない世代に政治に関心を持ってほしいとの思いから、つい「俳句談義」が「政治談議」のようになったが、本論に戻ろう。

               

坊城俊樹空飛ぶ俳句教室」の「虚子と戦争」に次のような記述がある。

  

「終戦直後、新聞記者に俳句はどのように変わったかと問われた虚子は、
『俳句はこの戦争に何の影響も受けませんでした』と答えたといいます。そのときにその記者があわれむような目をしたと言っては、虚子は笑っていました。」

    

「虚子俳句問答」における読者と虚子との質疑応答を読むと新聞記者の質問に対する上記の虚子の答えは納得できる。

虚子は自分が日本文学報国会俳句部会長として戦争を賛美することなく客観写生花鳥諷詠の文芸を堅持し、時代の流れに掉さすことも流されることもなく、文芸家・俳人としての良心貫いたのだと思う。 

            

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俳句談義(7):高浜虚子の句「爛々と昼の星」の「星」とは何か?(続編)

                   

爛々と昼の星見え(きのこ生え」について、坊城俊樹さんは「虚子の宇宙の片鱗」とか「虚子の遊び」などと言っているが(俳句談義(6)」参照)、この句には「謎解き」のような面白さがある

          

稲畑汀子さんは「虚子百句において次のように言っている(抜粋)。

「この句ほど不思議な力で読む人を惹きつけながら、解釈を施そうとすると困難を極める句も珍しいだろう。

・・・(省略)・・・

虚子が3年余りに及び滞在した小諸を引き揚げる直前のこの日、長野の俳人達が大挙して山ほどの松茸を持参して別れを言いにやってきたのである。句会に出席していた村松紅花の証言によれば、句会の席上、長野の俳人の一人が、『深い井戸を覗いた時、昼であるのに底に溜まっている水に星が映り、途中の石積みの石の間に菌が生えていた』という体験を話したという(注:村松紅花は村松友次の俳号)。

・・・(省略)・・・

虚子は一俳人の話に感興を動かされて、いや感興などという生易しいものではなく、インスピレーションを得て一気に頭の中で壮大な宇宙を作り上げたのではないだろうか。

・・・(省略)・・・

この句は信濃(しなの)の国に対する虚子の万感(ばんかん)を込めた別れの歌であり、最高の信濃の国の()め歌なのである。(以下省略)      

           

掲句についての山本健吉の「定本 現代俳句」における句評を「俳句談義(6)」で抜粋引用したが、その句評の最後に次の記述がある。 

「・・・(省略)・・・連句の連用形止めは、たいてい『見えて』『生えて』というふうに、『て』止めである。この句の感じは、やはり朔太郎の用法に近い効果を見せ、何か不気味な、感覚的な戦慄を生み出している。老境の虚子の、感覚的な若さを感じさせる。」

            

以上のように、この句に対する解釈は評者によって様々であり、「謎解き」のような面白さがある。

    

    

写生句であれば、「切れ」の効果を出すために「終止形」にするのが普通であるが、「爛々と昼の星見え菌生え」と、「連用形止め」である。この句は写生句ではない。「昼間は見えない星も夜には爛々とするという宇宙の現象」を捉え、「森羅万象」を抽象的・主観的な比喩で表現しているのではないか?

虚子花鳥諷詠を広く捉え、このように俳句を比喩的に作ることも花鳥諷詠であると範を垂れているのではないか?

        

この句には、「長野俳人別れの為に大挙(たいきょ)し来る。小諸山廬(こもろさんろ)」の詞書(ことばがき)がある。インターネットで長野県出身の俳人を調べたところ、河合曾良小林一茶小澤實矢島渚男など15名がリストされていた。                

       

星は曾良や一茶など鬼籍の俳人を指し、「(きのこ)」は小澤實矢島渚男など現存の俳人を指していると解釈してもよいのではないか?

すなわち、「長野の俳人の活躍を讃え、花鳥諷詠の俳句が将来も隆盛することを信じ・喜んでいる句である」と解釈してはどうか?

虚子は宇宙のどこかで、「ほう、そんな解釈もできますか。」と、ニッコリしているのではないか?

遊び心のついでに、この句の後に連句として「花鳥諷詠ますます盛ん」と付け加えたら、虚子は何というだろうか?

星になった桑原武夫碧梧桐秋櫻子などは何と思うだろうか?

先達と彼岸で俳句談義が出来ると面白いだろうが、元気な限り「露の世」の俳句談義に興じたい。

      

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俳句談義(6):高浜虚子の句「爛々と昼の星見え菌生え」の「星」や「菌」とは何か?

       

高浜虚子小諸山廬にて詠んだ掲句について山本健吉は「定本 現代俳句」において次のように述べている(抜粋)。

   

昭和221014日作。小諸を引き上げる前の作品で、「長野俳人別れの為に大挙し来る」と注記がある。

「昼の星」とは太白星(火星)である。山の秋気が澄んで、まだ日の高いうちから、爛々と大きく、赤く燃えるような色を放って輝いている。地には「菌」がにょっこりと頭をもたげている。・・・(省略)・・・空と大地と、二つの異様な色彩のものを対置し、抽象的な装飾画のように、ただその二つのものが並べ置かれているだけである。(以下省略)

(注:上記の太白星の「火星」は「金星」の誤りである。)

(青色文字をクリック or タップしてリンク記事をご覧下さい。)

             

坊城俊樹氏の「高浜虚子の100句を読むには次の句評がある。

    

・・・(省略)・・・昭和二十二年四月一日には愛子の死が訪れ、老人虚子はそろそろ晩年の節目となる俳句にさしかかっていたと思われる。
 しかし、この掲句なのである。これが、七十歳を過ぎた当時の老人の句であるとは誰も思わない。ある意味で虚子の代表句であるが、伝統派の俳人たちはこの句の謎を追うことを嫌う。句意もさんざん人たちが議論を繰り返してきた。昼の星とは宵の金星であるとか、井戸に映った金星とか、妄想的に現出した星など、さまざま。
 筆者としては、これは虚子の遊びだと思っている。肉眼では金星が暁以外で見えるはずはないとか、金星は小諸と限定せずに鎌倉の夕刻の回想とか諸説の理由ももっともであるが、なんとなく庭の菌を見ていたらそんな気がしたのであろう。昼の星を太陽としても天文学的には間違いではない。しかし、それはそれとしても太陽にもそんな気がしたのである。
 いわば、虚子としての集大成の写実の次に見えてくる、虚子の宇宙の片鱗なのである。」

             

上記のように、山本健吉は「抽象的な装飾画のように、ただその二つのものが並べ置かれているだけである」と言い、坊城俊樹氏は「虚子の宇宙の片鱗」とか「虚子の遊びだと思っている」と言っている。

     

太陽(恒星)は星の一つである。

覗いた井戸か池に太陽が映って輝いており、キノコがどこかに生えているのを見て作った句かも知れない。

しかし、唯それだけなら虚子は何故に「長野俳人別れの為に大挙し来る」という注記を付けたのだろうか?

        

虚子は「深は新なり」といっている。高浜虚子記念館HP虚子の思想参照) 

  

また、「新・俳人名言集復本一郎著 春秋社発行)によると、虚子は「客観描写を透して主観が浸透して出て来る。」と言っている。

    

だから、具体的なものを抽象的に表現している俳句の場合は何かを比喩的に詠んでいる可能性がある。「長野俳人別れの為に大挙し来る」という注記を考慮すると比喩の可能性が高い。

もし、「長野の俳人たちとのこの別れは今生の別れとなるかもしれない」と虚子が考えていたとすれば、辞世の句として作ったのかも知れない。       

      

芭蕉は「平生即ち辞世なり。」といひ、

また、

「きのふの発句はけふの辞世、けふの発句はあすの辞世、わが生涯いひ捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし。」

と言っている。(「新・俳人名言集」)

虚子もそういう気持ちで俳句を作っていただろう。

そうだとすれば、虚子は、「星」を死後の自分に例え、後に残る俳人や次々と新たに生まれてくる俳人を(きのこ)」に例えていると解釈できるのではないか?

               

坊城俊樹氏は「虚子の遊びだと思っている」と言っているが、虚子は読者が句の解釈をどのようにするのか、誤解があればそれはそれとして楽しむ余裕を持っていたようである。

虚子は、「虚子一人銀河と共に西へ行く」という句も作っている。虚子の俳句には謎をかけられているような興味が湧く。

選は創作なり」という虚子の言葉にあやかって、「解釈も創作なり」と誤解を恐れず私見を述べているが、星になった虚子は「ほう、そういう解釈もできますか。」と、面白がってくれているかもしれない。 

「俳句は存問の詩である」と虚子は言っている。次回は試みに別の解釈について書きたい。     

    

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2015年2月17日 (火)

俳句談義(4): 高浜虚子の句『大寒の埃の如く人死ぬる』とは、「平和」を考える

                  

P.S.2022.3.26

ウクライナ紛争について、「已むに已まれぬ思い」を俳句に詠み、紛争解決案を提言しました。

青色文字をクリック(タップ)して、「血に染むなドニエプルてふ春の川」や「春一番この発言はおぞましき」に書いた思いをシェアして頂ければ望外の喜びです。

      

昭和16年(1941年)1月に掲句を作ったとき、虚子は何を意識していたのだろうか?

「平和を願う祈りが世界の人々に通じ、地球上に愚かな戦争がなくなる日がいつかは来るのではないか」と、一縷の望みを捨てずに、このブログを書いている。

   

昭和12年には支那事変日中戦争 1937年~1945年)が始まっており、既に日中双方に多数の死者が出ていただろう。

  

インターネットを検索すると、伊予歴史文化探訪「よもだ堂日記」に「秋山真之 元気のない正月」というタイトルで、

明治29年(1896)1月初め、秋山真之が子規のもとを訪問。秋山が訪れたのは3年ぶりで半日閑談したのだが、このときの秋山はあまり元気がなかったと子規は述べている。」

という記事があった。

   

その前年、明治28年(1895年)4月17日には日清講和条約下関条約)が締結され、数日後の4月23日に三国干渉が起こっている。

秋山とは司馬遼太郎原作のNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の主人公の一人である秋山真之のことである。

高浜虚子は日露戦争当時の明治38年(1905年)7月1日発行「ホトトギス」に「正岡子規と秋山参謀」という次のような記事を掲載している(抜粋)。 

「子規居士と茶談中、同郷の人物評になると、秋山真之君に及ばぬことは無かった。秋山君は子規君と同年か若くても一歳位の差で、同郷同窓の友(松山では固より、出京後でも共に一ツ橋の大学予備門に学び、後ち秋山君は海軍兵学校の方に転じたのである)として殊に親しかった。

・・・(省略)・・・

その後は別に記憶にとどまるようなことも無く、日清戦争のすんだ時分、子規君の話に、秋山がこないだ来たが、威海衛攻撃の時幾人かの決死隊を組織して防材を乗り踰(こ)えてどうとかする事になって居たが、ある事情のため決行が出来なかった、残念をしたと話して居たと、言われた。

・・・(省略)・・・

その後、亜米利加に留学せられた事、あちらから毛の這入った軽い絹布団を子規君に送られた事(この布団は子規君の臨終まで着用せられたもの)、大分ハイカラにうつっている写真を送って来られた事、留学前に、ある席上で正岡はどうして居るぞな、と聞かれ、この頃は俳句を専門にやって居るのよというと、そうかな、はじめはたしか小説家になるようにいうとったが、そんなに俳句の方ではえらくなっとるのかな、兎に角えらいわい、といわれた事を記憶している。

・・・(以下省略)」

              

虚子は掲句を作った前年の昭和15年(1940年)3月には「大寒や見舞に行けば死んでをり」という句を作っている。この句は「死んでをり」という具体的な表現であるから誰か身近な人の死を詠んだものだろう。

しかし、掲句では「人死ぬる」と一般的な表現である。

上記のホトトギスの記事にある「日清戦争のすんだ時分、子規君の話に、秋山がこないだ来たが、・・・(省略)・・・絹布団を子規君に送られた事(この布団は子規君の臨終まで着用せられたもの)」という記載からすると、虚子は秋山と子規のこと、日清戦争(1894年7月~1895年3月)日露戦争(1904年2月~1905年9月)のことに思いを馳せ、現に行われている日中戦争(1937年~1945年)のことを念頭において掲句を作ったに違いない。

   

当時の世界情勢は列強帝国主義政策を推進しており、日本も遅ればせながら列強に負けじと帝国主義の道を突き進んでいた。昭和11年(1936年)には二二六事件が起こっている。

昭和15年には戦時体制としての内閣総理大臣総裁とする大政翼賛会が発足し、津田事件が起こるなど、反戦的な発言は許されない時代になっている。

虚子は現実の生活において通俗的に「人の命」を「」や「埃」と同一視していたとは考えられない。「埃の如く死ぬる」という比喩は、「人の死」を軽んじているのではないだろう。

おそらく、「戦争における人の死は宇宙から見ると大寒の埃のようなものである」と憂い、戦争による多数の死を空しいと思っていたのではないか?

しかし、「絹布団」~冬の季語布団」~「綿埃」を連想し、「色即是空」という潜在的意識から、花鳥諷詠の一つとして淡々と句にしたのだろう。

ちなみに、「蒲団」と言えば明治40年に田山花袋自然主義文学の代表作と言われる小説「蒲団」を発表している。    

            

参考までに掲句に関してインターネットで検索したブログ(抜粋)を下記に挙げるが、対照的な解釈をしている。

 

(1)「遼東の豕」(作者名不詳)  

「ワシャは俳句は素人なのでよく解からないが、虚子の死生観が感じられる一句だと思う。『大寒の埃』とは、寒い朝、書斎の障子越しに射す光に浮かんだ微小な埃のことだ。小さなものと大いなる寒さの対比がおもしろい。虚子はその埃が室内の暖気の対流をうけてきらきらと舞っているのを見た。時間の経過とともに埃は墜ちていき、やがて畳の目につかまって動かなくなる。それを死と観たか。人の生き死にも大いなる自然から見れば、埃の死と大差ないのだよ、だから嘆かないでということなのだろう。

     

(2)「六四三の俳諧覚書」

虚子の作りやう(三) 写生と背景

「『大寒の埃の如く人死ぬる』 おそらくは親しかった人の死をホコリにたとえる、この非情さはどうでしょう。そんなふうに作者を責めたくなります。ところが、真相は違いました。同じ句会で詠まれた『大寒や見舞に行けば死んでをり』の句とともに、連衆の笑いを狙った虚構句らしい。作者の年齢にも目を向けてください。老境の呟きです。昭和十五年、六十六歳。」

    

(3)「六四三の俳諧覚書」子規の革新・虚子の伝統(七) 花鳥諷詠

「『大寒の埃の如く人死ぬる』 昭和十五年冬。この非情さはどうなのか。実は、同じ句会の席で詠まれた『大寒や見舞に行けば死んでをり』とともに、連衆の笑いを狙った滑稽句でした。

     

上記のように国光六四三氏が虚子のこの句を「滑稽句」と評した根拠を知りたいが、昭和15年当時は「反戦句」を作ることは許されないのだから、虚子は「滑稽句」として披露したのか、あるいは「滑稽句」という解釈をそれで良しとして受け入れたのではなかろうか?

         

      

(4)「ときがめ書房」のブログ「大寒・高浜虚子」(作者名不詳)

死 秀句350」(倉田紘文著)の「『如是』という言葉がある。まったくさからう心のない、在りのままの姿を示す語である。・・・(省略)・・・」を引用している。   

    

夏目漱石が虚子という人物をどのように見ていたかを知るのに参考になる記事(「高浜虚子著『鶏頭』序」)があったので、次のとおり抜粋させて頂く。

       

「虚子の作物を一括して、(これ)は何派に属するものだと在来ありふれた範囲内に押し込めるのは余の好まぬ所である。是は必ずしも虚子の作物が多趣多様で到底(とうてい)概括し得ぬからと云う意味ではない。又は虚子が空前の大才で在来西洋人の用を足して来た分類語では、其の作物に冠する資格がないと云う意味でもない。虚子の作物を読むにつけて、余は不図(ふと)こんな考えが浮んだ。天下の小説を二種に区別して、其の区別に関連して虚子の作物に説き及ぼしたらどうだろう。

・・・(省略)・・・

余は虚子の小説を評して余裕があると云った。虚子の小説に余裕があるのは()たして前条の如く禅家の悟を開いた為かどうだか分らない。(ただ)世間ではよく俳味禅味と並べて云う様である。虚子は俳句に於て長い間苦心した男である。従がって所謂(いわゆる)俳味なるものが流露して小説の上にあらわれたのが一見禅味から来た余裕と一致して、こんな余裕を生じたのかも知れない。虚子の小説を評するに(あた)っては(これ)(だけ)の事を述べる必要があると思う。
 尤も(もっとも)虚子もよく移る人である。現に集中でも秋風なんと云うのは大分風が違って居る。それでも比較的痛切な題目に対する虚子の叙述的態度は依然として余裕がある様である。虚子は畢竟(ひっきょう)余裕のある人かも知れない。明治四十年十一月」

         

現在も世界のどこかで宗教や人種の違い、利害の対立などから生ずる愚かな戦争が行われている。情けないことである。正義」や「大義」、善悪などの価値観は時代や立場によって異なる。正義や大義の名のもとに愚かな戦争をすることがあってはならない。

宗教と科学の融合」でも書いたが、科学・文化、社会制度などが未発達の時代の預言者の唱えた宗教(一神教など)にいつまでも囚われず、既存の宗教の欠点を補完し、良い点を融合して現在の宇宙時代にふさわしい宗教的考えが確立されることを切望している。世界の宗教指導者や政治家が寛容・和の精神を実践することによって民衆を指導してもらいたいものである。

   

このような願望は所詮テロリスト集団などには通じないのだろうか?

凡人である私は、「大寒や花鳥諷詠南無阿弥陀」と平和憲法下における「平和国家日本の悠久」をひたすら祈りながら、ささやかなブログを書いているほかに術がないが、「平和を願う祈りが世界の人々に通じ、地球上に愚かな戦争がなくなる日がいつかは来るのではないか」と、一縷の望みを捨てずにいる。

  

「何が平和か」ということは大きなテーマであり、短歌や俳句・川柳などで一口に言えるものではないが、このブログが平和について改めて考えるきっかけになれば幸いである。

  

最後に、薫風士の俳句と川柳(即興句)をご笑覧下さい。    

   

ブログにて花鳥諷詠冬ごもり

待春や妻は吟行我ブログ

」を唱へブログを書きつ春を待つ

ブログ書き平和を祈り春を待つ

子と孫に託す世界の平和かな

      

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2015年2月16日 (月)

「昭和や」の酔客のエッセイ:「素粒子論と般若心経と高浜虚子の俳句」

            

昨年6月に「宗教と科学の融合」というタイトルの「チュヌの便り」を書いたが、そのことを神戸の「昭和や」で11月にMさんやI君と飲んだ時に話題にしたらI君が素粒子理論のことを話してくれた。

そのことを思いだして、柳澤桂子著「生きて死ぬ智慧」のことを引き合いに出して、「何かエッセイを書いてくれないか」とI君にメールしたところ、その返信が面白い内容だったのでI君の了解を得て適宜抜粋して転載させて頂く。

     

     

青色の文字をクリックすると関連の解説記事などがご覧になれます。

     

(以下はI君のメールの抜粋)

柳澤桂子著「生きて死ぬ智慧」は読んでいません。

般若心経の解説書は、5-6冊は読んだと思うのですが、それぞれに特有の解釈、説明がしてあって、特に『空即是色』の解釈はまちまちですね。それで良いのでしょう。

私は原子では考えていません。それをさらに分解した素粒子こそ根源だと思ってます。

大分頭を悩ませたことは事実ですが、『物事に執着することが…』などと言う心境にはいまだ達しておらず、物事に執着しなくなろうとstruggleする姿が良いと思いましょう。

エッセイに仕上げようとすれば、「一杯飲みながらの話」ではなくなってしまうので、このメールで済ませます。では、どうぞよろしく。

   

あれから、大兄にちゃんとした返事をしようと記憶をたどって見たり、本棚を探したり、新聞の切り抜き、Internetのプリントなど探してみたが、結局これがそうだと言う資料はないと言わざるをえない。

結論ともいえないが、「人間や世界を作ったのは神・仏なのか、あるいは物理現象なのか」についてかなり前から考えていて、その観点からいろいろ雑多なものを読んでいるうちに、「世界と人間を作って、あるルールで宇宙を制御しているのは神ではなく(神はいない)物理の法則ではないか」と思う様になった。

そこで、四国歩き遍路に出る前、般若心経の解説本を数種読んだ中に、人間を(あるいは物質を)極限まで分解して行くと素粒子に行きつく。これが「空」である、と言うのがあった。

一方で、素粒子そのものは光速とほぼ同じ速度で宇宙を飛び交っていて物質になりえない。素粒子そのものである。素粒子が物質になるのはなぜか、ということを物理学者は昔から研究していた。

そう言う研究者の一人、英国のHiggsが考えた理論があった。彼の名をとった『Higgs粒子』と言うものがあって、それと素粒子とが接触することで素粒子は重力を持ち、質量を得て速度が落ちる。

それに素粒子がさらに接触すると、それはさらに質量を得て物質になっていく(この辺小生の理解は荒いからご注意)。これが物質の発生である。人間も物質である。

この物質こそは般若心経に言う『色』である。

私が考えたのは(ほんとにそうかちょっと自信ないが)このHiggs粒子と素粒子の交わりが仏教の上では『因縁』と呼ばれるものではないか。

因縁によって我々は生成し、そして死んだあとは素粒子に帰り、また新たにHiggs粒子と合体し、次々にほかの素粒子と合体し新しい物質あるいは生物に生まれかわる。この生まれ替りを「輪廻」と言う。次の世では動物や植物などいろいろなものに転生する。この生まれ替りの連続を『輪廻』と言うのだと思う。

これは多分ヒンズー教の哲学に根差しているようにおもわれるが、小生が今思っているのはそういうことです。

自分で構築したとはとても思っていないが、これと言う種本も思いつかないので、2,3本を挙げておきます。上記のようなことをそのまま書いた本はないように思うけれど。

般若心経講話」 鎌田茂雄著 講談社学術文庫

般若心経」 松原哲明著 主婦の友社

仏教の源流ーインド」 長尾雅人著 中公文庫(これは良い本です)

生物と無生物の間福岡伸一(分子生物学者)講談社現代新書

この本は良い。この件とは関係なく一読をお勧めする。この学者を私は非常に尊敬している。

重力とは何か大栗博司著 幻冬舎新書

 

ちょっと前後錯綜しますが、上記のような宇宙論を日本で最初に唱えたのは空海ですね。

先日2月7日の日経新聞に仏文学者・竹内信夫さんが語られた話が載っていたが、その内で私が目をひかれた部分を引用します。

     

空海の思想の中核には『いのち』がある。生物すべての、あるいは宇宙全体と言う一つの大きな命があって、それぞれの人や動物、植物がそれを分かち合い、分有をしていると言う考え方です。一つひとつの命は授かりものだから、大事にしなくてはいけない。他の人や生き物の命も当然、大切にしなくてはいけない。殺伐とした現代にも通じる考え方だと思う」

     

私は、自分が宇宙に存在するあらゆるもの、この惑星に存在するあらゆるもと、同じように生成してきて、お互いに存在しているとおもうと、そういうものがなんとなくいとおしいものに思われてきています。

最近私は「色color」に魅かれるようになりました。花、草木、木々、山、川、雲、空がみんな美しくてたまらないようになってきました。友人にも同じことを言うのがいて、これは年齢の所為だろうかと思いますが、そう感じることは極めて快適ですし、気持ちを暖かく包んでくれます。

この感じは俳句を詠まれる大兄はずっと前から体験していることかと思いますので、釈迦に説法かも知れませんね。

春が待たれますね。では、また。

     

(以上がI君のメールの抜粋)

       

I君のメールの最後の記述は高浜虚子の昭和29年の著書「俳句への道」の冒頭の言葉<私等は、日本という国ほど景色けしきのいい所は世界中ないような心もちがします。>を思い起こさせる。

         

小生は「高浜虚子は『色即是空』の宇宙観を持って花鳥諷詠を俳句にしたのではないか」と思い、「春の山屍を埋めて空しかり」を辞世の句として新解釈をブログに書いたが、「深は新なり」と言った虚子の俳句は謎解きのような興味を抱かせる。折に触れて虚子の俳句を小生なり解釈して俳句談義にとりあげたいと思っている。

      

     

   

2015年2月 9日 (月)

俳句仲間のエッセイ:「俳句と川柳」

         

今回は俳句仲間の河野輝雄氏のエッセイ「俳句と川柳」を掲載させて頂きます。

河野氏は俳句のみならず水彩画も趣味として楽しんでおられ、西宮市生涯学習大学「宮水学園」の「画楽彩グループ展」に猫の画風景画などを出品されます。

このグループ展はJR西宮駅南側にある「フレンテ」(4階)で平成27年2月18日~23日に開催の予定なので見に行きたいと思っています。

    

(青色文字をクリックして関連の解説記事をご覧になれます。)       

     

   俳 句 と 川 柳 

       2015.2.7 河野輝雄  

最近の某句会で「言訳は 俯き加減 寒の月」という句を出したが、誰にも取ってもらえず無得点句となった。この句には少し思い入れがあったので、講評の場で以下のように言訳をさせてもらった。

すなわち、この句は古川柳集「俳諧 武玉川」に出てくる私の好きな、そして有名な古川柳俯向は 言い訳よりも 美しき」 (下記書物の索引では、「俯向 言い訳よりも 美しき」)をふまえて作ったものであることを述べた。

この言訳に対して句会の講師格の女性の方から、その川柳はなかなか色っぽいねと言われ、川柳については、よく理解していただいたようだった。

この川柳は神田忙人著「『武玉川』を楽しむ」(朝日選書337)のP.302に記載があり、評釈として「若い女性のように思われる。小言を言われたが弁解もせず、ただうつむいているのである。作者はそれを不貞腐れたとか返答につまったとかは見ずに、おとなしい忍従とみて感心しているのだ。弁解は十分に出来るのだがそれをせず、うつむいている様子に同情している。」 とある。

その後、少し考えて上記の句会提出句を「言訳に 俯く少女 寒の月」のように修正してみた。

     

俳句と川柳の違いに関しては、まず川柳には季語がなくてもいいことや、俳句が主として自然を詠むのに対して、川柳はどちらかというと人情を少し滑稽味をもって詠む、という解釈が一般的?であるが、復本一郎著「俳句実践講義」(岩波現代文庫/学術265)の中で俳句は連歌の発句から出てきた文芸なので「切字」が季語以上に大事であると解説している。

その実例として以下の句を示し俳句と川柳の違いを述べている。

①   買いに(ゆき)て絵の気に入らぬ団扇(うちは)かな

②   客が来てそれから急に買う団扇

③   桟橋に別れを(をし)む夫婦かな

④   油画(あぶらゑ)の初手は林檎に取りかかり

       

①~④でどれが俳句でどれが川柳か? 

①、②の団扇は夏の季語である。③には季語がなく ④の林檎は秋の季語。

なんと①と③が正岡子規の作で俳句。②と④は子規と同時代人の川柳作家 阪井()()()の作で川柳である。

①と③の句における切字(きれじ)「かな」がポイントで、詠嘆、感動を表現する終助詞「かな」が一句を完結させる役割を担っている。俳句性を保証するのは、季語以上に切字であると述べている。

季語の有無が俳句と川柳の基本的な相違と考えていたがどうも違うようである。勉強不足であり、もう少し勉強してみる必要がありそうだ。

                     

(チュヌの主人のコメント)

現代俳句には川柳であると言った方がよいと思われるものがある。そのような俳句は一見すると面白そうで初心者が楽しむのによいだろうが、深みが無くて物足りない。高浜虚子の俳句は一見すると何でもないようであったり、何を言っているのだろうと興味が湧くものがある。その解釈をあれこれ考えていると飽きが来ない。虚子は「俳句の選は創作なり」と言っているが、「俳句の解釈も創作である」と思っている。虚子の辞世句の新解釈など「チュヌの便り」に書いている。

お暇があれば「俳句談義」などをご覧下さい。

          

2015年2月 7日 (土)

後藤健二さんの死を無にするな! 政治家やマスコミが言っていないことを言う。

         

イスラム国」と称するテロ集団による後藤さんたちの殺害に対し憤りを抑えきれない。

理不尽な誘拐や殺人に対する怒りを抑えることは出来ない。

だが、その仕返しをすることは際限のない憎しみと殺戮の繰り返しの応酬になる。

憎しみの応酬は善良な市民をテロの被害者にする危険性を増大する。

そればかりでなく、予期せぬ戦争を引き起こす恐れさえある。

テロに屈してはならない。

各国が協力してテロ対策に万全を期すことが必要であることは言うまでもない。

しかし、それは対症療法に過ぎない。

     

肝心なことは根本的なテロ対策・解決方法を講ずることである。

後藤さんたちテロの被害者の死を無にしないためにはどうすればよいだろうか?

言論の自由や表現の自由は権利として尊重されなければならない。

しかし、誰にしろ、他人の心を傷つける権利はない。

    

世界には似非宗教もあり信じない者にとっては宗教は滑稽なこともあるが、信ずる者には崇高なものである。

他人の信じている宗教を風刺し、侮辱することが当然の権利とは思えない。

風刺画を書いたり風刺文を書いたりする者にとっては侮辱したつもりが無くても、風刺の対象にされたものは侮辱されたと思うことはあるであろう。

伝統のある宗教には善良な信者がいる。そういう善良な人々の心を傷つけることをすれば、過激派のみならず善良な人々の怒りもかうことになり、理不尽な過激派を勇気づける結果になるだろう。

    

日本では川柳や風刺画などで政治家を風刺をすることがある。

しかし、特定の宗教を風刺する川柳などは受け入れられないだろう。

芸術・文化の盛んなフランスには伝統的に風刺が尊重されている。

だが、特定の宗教を対象に風刺することは賢明な文化的行為だとは思えない。

そのような風刺を自粛することはテロに屈することではなく、人間としての良識の問題である。

国の如何を問わず、文化国家、文化人としての良識を発揮して貰いたいものである。

テロに関してやるべきことは「風刺」ではなく、「宗教とは何か」を真摯に考え議論することだろう。

     

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2015年2月 4日 (水)

本との出会い(7):                  「俳句の力学」と虚子の句「去年今年」

      

虚子の「去年今年」の句:

・去年今年貫く棒の如きもの  

・去年今年一時か半か一つ打つ

 

について、岸本尚毅は「俳句の力学」(ウエッブ発行)において次のように述べている(抜粋)。

    

『棒の如きもの』は時間というものの本質を普遍化し、抽象的に捉えました。『貫く棒の如き』とは『世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない』という『伝道の書』の言葉を思わせます。この句はいわば『色即是空』の眼でものを見た句です。

一方『一時か半か一つ打つ』は思い切りディーテールに徹しました。この句は時計で知る時間の覚束なさを思わせます。この句のディーテールへのこだわりは『空即是色』的とも思えます。

『貫く棒』のようにディーテールを捨象し、単純化・抽象化を極める作風は俳句の大きな魅力です。

その一方で『一時か半か』のように、個々のディーテールに無限の可能性を求める行き方も俳句の豊饒を示すものといえましょう。(・・・以下省略・・・)」(「俳句の可能性」の項)

   

また、「季題という秩序」の項で次のように述べている。

   

「高浜虚子は言います。『四季の循環に意を注ぎ、宇宙の現象に心を留むることは俳句の道である。併し或ひは(中略)それによって安らかに人生の幕を閉づる事が出来る、所謂、菩提心を得る捷径(しょうけい)になるのかも知れぬ』(『虚子俳話』)と。」

            

更に、高浜虚子の「俳句への道」から次のとおり引用して、岸本さんは「私は虚子の言葉を金科玉条のように信奉しています。」と言っている。(「写生について」の項)

      

「写生といふことは解釈の仕様によっては、どこまでも広いことになり、どこまでも深いことになる。それを狭く解して攻撃する人がある。それ等の人は別に恐ろしいとは思はない。広く解し深く解し、鋭意それによって新しい境地を拓いて行く人には、なんだか恐ろしいやうな尊敬の念が起こる」

           

「俳句への道」における虚子の記述や岸本氏の上記句評を考慮すると、「チュヌの便り」の「俳句談義(1」で述べた虚子の辞世句「春の山(かばね)を埋めて空しかり」の新解釈や「俳句談義(3」における虚子の句初空や大悪人虚子の頭上に」の新解釈の裏付けになるのではないかと、意を強くした。

虚子の句の解釈をすることはチャレンジングで面白く、嵌りそうである。

 

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2015年1月12日 (月)

俳句談義(3):虚子の句「初空や」の新解釈:大悪人は誰か?

    

(P.S. 2024.1.25)

初御空平和祈るや龍昇る

龍昇れ世界の空へ吾夢運び

掲句は「龍天に昇る」(春の季語)を捩っています。

「吾夢」は俳句のリズムに「あむ」と読んで下さい。

初夢の俳句」をご覧下さい。

        (薫風士)

  

(2015.1.12の記事)

正月になれば虚子の句「初空や大悪人虚子の頭上に」のことに思いを巡らせる。

      

この句は従来の一般的な解釈では「大悪人虚子」と読んでいるが、そうであれば、「初御空」と表現するのが自然でないか? 「初空や」の句は5・7・5の定型でないが、「大悪人」と「虚子」を切って間をとって読めば俳句として不自然ではない。

虚子が「初御空」と言わず、「初空や」と詠んだのは「大悪人」と「虚子」とを切り離して、文字通り「大悪人が虚子の頭上にいる」と読ませるためでないか?  

それでは「大悪人」とは誰を指すのだろうか?   

大胆な推定であるが、「大悪人」とは「天智天皇」を指しているのではなかろうか?

   

虚子は同じ頃(大正6年)に「天の川の下に天智天皇と(臣)虚子と」という句を作っている。

虚子が「天の川の下に天智天皇と」と並記していることに興味が湧き、ネット検索をしたところ、吉岡禅寺洞の記事に「一千余年を隔てた二人の人物が、ひとしく文学者としてつながり」とあるが、虚子天智天皇を句に取り入れたのはそれだけが理由ではないだろう。

ウイキペディアの解説によると、「天智天皇」は「中大兄皇子」のことであり、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。」とある。

    

大義のある改革をするためとはいえ、「暗殺」という非常手段に訴えることは「大悪」である。対立する側からは中大兄皇子は「大悪人」とののしられたであろう。

だから「天智天皇のことを大悪人」と言っても不思議ではない。「初空や」の句は「天の川」の句と併せ読むと、「大化の改新をした天智天皇が大悪人なら、俳句の革新・大衆化を進めている臣たる自分も大悪人である」と感じて、「天智天皇が臣虚子を初空で見守っている」と詠んだものであると解釈することもできるだろう。

虚子は俳句を大衆に広めるために「花鳥諷詠」と「客観写生」を唱え、有季定型」は俳句の重要な要件であると説いている。しかし、虚子が作った「天の川」や「初空」の句は「定型」の5・7・5ではない。自分と対立する立場の人々から非難もされている。良かれと思ってしたことが傲岸ととられたり、悪い結果になったこともあるかもしれない。自分がしてきたことに対して何らかの罪悪感を持つこともあっただろう。

虚子は「天智天皇も自分もとか原罪などを同じように持って生まれた人間であり、1200年の時代の差は悠久の宇宙から見れば無きに等しい」と感じていたかもしれない。

         

このような解釈をすると、「一方で『天智天皇と(臣)虚子と』と言いながら、他方で『大悪人虚子』と言って俳句を作ったのも自然の成り行きと言える。このように考えると、本との出会い(4)」で提起した疑問を解消することができる。

     

「天智天皇を大悪人と言うのはけしからん」とか、「虚子が天智天皇のことを大悪人などと言うはずがない。バカなことを言うのもいい加減にしろ。」と怒る人もいるだろう。

しかし、「選は創作なり」と虚子は言っている。俳句を「鑑賞」し「解釈」することも「創作」と言えないこともない。 

虚子は俳句で様々な表現を試みており、その解釈も読み人次第であることを認識していたのだから、「このような解釈も創作の一つだ」として認めてくれるのではなかろうか? 

    

俳句の楽しさ面白さ醍醐味は花鳥諷詠の句作のみならず鑑賞を通じて創作的解釈をすることにもある。次回も虚子の俳句について書きたい。

            

最短の詩型としての俳句が持つ本質的な限界と広がりの可能性の面白さを再認識して、このブログを書きました。

何らかのコメントを頂けると幸甚です。

    

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2015年1月 9日 (金)

本との出会い(6):「虚子俳句問答(下)」と「大悪人虚子」

     

「初空や大悪人虚子の頭上に」ついて、「俳句談義(3):虚子の句『初空や』の新解釈:大悪人は誰か」をブログに書いた後で、俳誌「玉藻」の読者の質問と虚子の回答が「虚子俳句問答 稲畑汀子監修(下)P.196」に下記の通り記載されているのを見つけた。

(質問)

「虚子先生の御句、この場合の「大悪人」という語の複雑なる御意、ご説明願えたら幸甚と存じます。」(川越 横田清子)〔15・1〕

(回答)

親鸞が自分を大悪人といったという心持を、面白いと思っておる私であります。」

 

虚子の上記の回答は真実だろうか?

昭和15年(1940年)は皇紀2600年である。

この年は「紀元二千六百年記念行事が行われ、「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが強まった年であるから「大悪人は天智天皇である」とは到底言えなかっただろう。

そこで、句の説明に親鸞を引き合いに出してさらりと回答したのではなかろうか?

虚子が親鸞のことを句にした「」や「動機」としては、親鸞を尊敬していた夏目漱石(「模倣と独立」参照)が1916年(大正5年)12月に亡くなったことぐらいしか思いつかない。

虚子が親鸞のことを句にした明瞭な理由が見つからない限り、上記の回答が真実かどうかを疑わざるを得ないのである。

1912年(明治45年)には美濃部達吉が『憲法講話』を著し天皇機関説を提唱している。「初空」の句が作られた大正6~7年(1917~8年)ごろは比較的自由にものが言える大正デモクラシーの良き時代であった。

この句を詠んだ虚子の真意は本人と神のみの知るところであり、あくまでも推測に過ぎないが、この頃なら天智天皇を大悪人と言っても問題にならなかったであろう。

何か事実関係についてご存知の方があれば、教えて頂ければ幸いである。

       

    

 

2014年12月29日 (月)

本との出会い(5): 「俳句の宇宙」と「大悪人虚子」

   

「俳句の宇宙」(花神社1989年発行)において、長谷川櫂虚子について次のように述べている。

       

「虚子を勉強していると、ときとき、不気味な虚子に出会う。久女の場合だけに限らない。虚子にとっては、俳句とホトトギス王国とどちらが大切だったのか。俳人だったのか、権力の亡者であったのか――そんな疑問が頭をもたげてくる。あまりにも現世的な姿の虚子。それはたいてい、暗くて大きくて、不敵な笑いを浮かべている。黒い虚子。こういう虚子はなかなか好きになれない。」(第三章2の最後から抜粋)

「しかし、俳人であったのか、権力の亡者であったのか、と二者択一で割り切れないところに虚子のほんとうの難しさ、面白さがあるのかもしれない。虚子のなかでは、よき俳句作家と冷酷な権力者とが、ただ表面上だけでなく、深いところで融合しているのではないだろうか。俳句と「力」とが――といいかえてもいい。「力」という要素は虚子の俳句や俳句観に深く埋め込まれている。虚子の俳句は「力」の表現だともいえると思う。虚子の奥底にあって、磁力を発しつづける「力」。これが17文字の俳句になったとき、図太いとも、また、艶やかとも映るのではないか。」(第三章3の冒頭から抜粋)

「虚子は、みずから「大悪人」を名のる。この句(「初空や大悪人虚子の頭上に」)は一見、大謙遜に見えながら、実は大うぬぼれの句であるらしい。自分の「力」への揺るぎない自信。虚子は、この句でも不敵に笑っている。」(第三章3の最後抜粋)

「微粒子の世界から星たちの空間まで、響きわたる巨大なオーケストラとしての宇宙。小さな草の芽を見ながら、目の前に湧き起こりつつある宇宙の音を、はっきりと感じとっている虚子。こういう虚子はいちばん興味深い虚子だ。同時に手怖い虚子である。」(第三章5の終わり抜粋)

「昭和22年頃、虚子の言葉というのが私の耳にもとどいた――「第二芸術」といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはいなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか。戦争中、文学報国会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った。」(注:『第二芸術』の「まえがき」)(第三章6の終わりより抜粋)         

    

「傍若無人の態度」とは具体的には何を指しているのだろうか? 虚子はこの時期にどんな俳句を作っていたのだろうか?

「俳句の宇宙」からの上記抜粋にあるような虚子の「力」は何から出ているのだろうか?

花鳥諷詠の「極楽の文学としての俳句を世に広めたいという信念の強さが「力」となったに違いない。そういう信念が、「花鳥諷詠南無阿弥陀仏」や「天の川の下に天智天皇と臣虚子と」「初空や大悪人虚子の頭上に」「去年今年貫く棒の如きもの」などの俳句に結実したのものと思うが、虚子がこれらの句を作った「」を知りたい。時には「大悪人」と言われるような非情ともとれる行動になった「」をもっと知る手立てはないものだろうか?

                    

     

高浜虚子の世界」(角川学芸出版「俳句」編集部)のアンケート「私の虚子」③「いま、虚子について思うこと」に対して、俳文学者矢羽勝幸氏は次のように回答している。(抜粋) 

「③ 碧梧桐の方向も近代化の過程で当然だとは思うが、虚子のとった“九百九十九人のみち”すなわち俳句が庶民文芸であることを(芭蕉の軽み、一茶の最後にめざした俳諧)近代に再生、継承した功績は偉大だと思う。“九百九十九人のみち”を凡人主義と解してはならない。・・・(以下省略)」

 

また、大木あまり氏(俳人)はアンケート②「心にのこる虚子の言葉、あるいは愛読の虚子著作」に対して、次のように回答している。

「② 理論の花より芸の花こそよけれ。標語の花よりも真の実こそよけれ。」

「世評を気にかけないで行動する人は快い。私はそういう人を好む。世評を気にかけて行動する人はみじめだ。私はそういう人を好まない。」

「高遠なる思想を辿る事もよいが、また平凡な日常に処する事も大事だ。」     

                                       

 坊城俊樹さんは「虚子の100句を読む」において、虚子の句「石ころも露けきものの一つかな」を挙げて次のように述べている(抜粋)。

 

「・・・(省略)・・・むしろ年尾は『客観写生』『花鳥諷詠』提唱後の虚子の句でも、表現的に単なる写生句より、自然界にあるすべての有情のものとして、人間を含めた、大きな句を取り上げて言っている。年尾の好みと言っていい。筆者もまた、この句に関してはそのように感じる者であるが、虚子はそれをあくまで『月並』的な鑑賞であるとした。

しかし、虚子の謂う『天地有情』という観点からも、この句は現代の伝統派がよく使う、通俗的で安っぽい措辞の『の心あり』『といふ命あり』などとは根本的に異なる広遠な句と思うのだが。

この句をあえて取り上げたのも、大震災の現場にある石ころの映像を見たからである。その被災地にある石ころは只の石ころではない。甚大な被害と、多くの被災者の命を奪った大地にころがっていた石ころである。この句を思い出さずにはいられなくなる石ころであった。」

                  

上記のように、俊樹さんは東日本大震災に言及しているが、この句を虚子が作ったのは昭和4年(1929年)の8月であり、その前の6月には北海道駒ヶ岳噴火して死傷者も若干出ていたようである。今年は木曽の御嶽山が噴火して多くの死傷者が出た。

虚子はこの「石ころ」の句を作ったとき、駒ヶ岳の噴火を意識していたのだろうか?

因みに、1923年に起きた関東大震災について、河東碧梧桐俳句を作っているが、虚子は一切俳句を作っていないとのことである。

「虚子は俳句など短詩にはそれぞれサイズに応じた適所持分があるとしており、後に起こった太平洋戦争や原子爆弾についても俳句を詠んでいません。また、震災忌、敗戦忌、原爆忌を季語として認めていなかった」そうである。

余談だが、この俳句を読むとエッセー「尾曲がり猫と擦り猫と」の「石ころ」のことを思わざるをえない。

                

このブログを書いている時に、インターネットで桑原武夫の第二芸術論に対する批判のブログを見つけた。

このブログは日本文化としての俳句の良さを論じた適切な反論だと思う。しかし、文化を愛し、国を思うことは尊いが、芸術を論ずるにはあくまで冷静に純粋に議論をするのが望ましい。いずれの立場にせよ売国奴などという表現があるのは感心しない非国民とか「国賊などというレッテル貼は慎まなければならないと思う。

     

いずれにせよ、虚子は、心の糧になる花鳥諷詠の文学、すなわち「極楽の文学」としての俳句、を大衆に広めることを目指していたのだから第二芸術という批判は的外れとして、「俳句も第二芸術まで来ましたか」「十八級特進したんだから結構じゃないか」議論の対象にしなかったのだろう。

    

「プロの俳人が高邁な文学として純粋に探究するのも良し、月並みであろうと大衆が俳句を慰みにして天地有情の一端を楽しむことができればそれもよし」、という考えだったのだ。虚子の俳話(昭和33年1月)にもあるが、このような揺るぎない信念が大きな力を発揮させたのだろう。

         

       

虚子は、昭和18年に出版した「俳談」の序文に、

「何故に何という理屈を述べることはさけて、只何々であるという断定した意見だけを述べたというようなものである。善解する人は善解してくれるであろうと思う。」と述べ、さらに、

    

本ものの虚子で推し通すというタイトルで次のように述べている。 

        

「自分は自分の固く信ずるところがあり、この信仰は何人もどうすることも出来ないものである。他の刀が切っても切ることは出来ぬ、他人の舌が千転してもどうすることも出来ぬものである、ということを固く信じている。従来俳壇に在って、私ほど多くの人々から攻撃されたものも少ないであろうと思う。・・・ 省略・・・自分の俳句は、少しもそれらの言葉に累せらるることなしに、著々として歩を進めているということを、固く信じているのである。」

      

(上記「俳談」の全文はここをクリックして、「サムネイル一覧」の「4」と「13」をクリックしてご覧下さい。)

       

          

天地有情」といえば土井晩翠の詩が有名であるが、このような詩は誰でも簡単に作れるわけではない。俳句は庶民が手軽に楽しむのに適した世界最短の型式詩といえる。これを高邁な文学としてのみ追求すれば一部の専門的俳人しか作れなくなる。虚子は元々俳句の良さ・特質や限界を認識した上で花鳥諷詠の楽しさを大衆に教えることを考えていたのだろう。

善悪のとらえ方や価値観は時代とともに変化する。虚子は悠久の宇宙の森羅万象・人間も含む自然・花鳥諷月を俳句にすることの可能性と限界を喝破していたに違いない。

だから、親子ほど歳の違うフランスかぶれの桑原武夫第二芸術と言われようと、青臭い議論としてそれに頓着しなかったのだろう。

虚子自身も駄句と批判される句を作っている。虚子が意図したわけではないだろうが、それが結果として俳句を親しみやすい庶民の文芸・娯楽にして今日の俳句の隆盛をもたらしているとも言えるのではなかろうか。

 

現在の高齢化社会で多くの人々が俳句を趣味として老後をエンジョイしている。そのことを知れば、虚子は「傲岸と人見るままに老の春」という俳句を作ったように、大悪人と言われようと自分の選んだ途は間違いでなかった、とニッコリするのではないか。

ちなみに、インターネット検索したところ、「傲岸に人見るままに老の春」というのもある。「に」と「と」では主客逆転した句意の解釈が成り立つ。「に」はミスタイプと思うが、この句は虚子が人を傲岸な態度で見ていることを意味するのか、人が虚子を「傲岸だ」と見ていることを意味するのか、どちらが正しいのだろうか?

「君、そんなことは超越していたよ。何事も『色即是空』だ。」という虚子の声が聞こえるような気がする。  

    

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2014年12月19日 (金)

本との出会い(1)「あの海にもう一度逢いたい」

       

(P.S. 2022.12.9)

22129

12月9日は漱石忌です。

夏目漱石などの文豪のみならず、市井の素人文人が少なくなく存在していることに日本の民度の高さを感じます。

冒頭の写真はパソコンで見た「趣味の陶芸 爺が自賛 オーブン陶土で作る狸のコンサート」の記事の一画面ですが、身近に陶芸を趣味にしている句友やゴルフ仲間もいます。

    

   

(2014.12.19の記事)

  

22129_2

(写真)

三田市在住の木下とし子さんのエッセイ集

   

   

読書週間だからというわけではないが、数年ぶりに図書館を訪ねた。

仲間との俳句談義で話題になった生命科学者である柳澤桂子の「生きて死ぬ智慧」(般若心経現代語訳)など般若心経の本を借りるためである。 

図書館の書棚を見ていると、「あの海にもう一度逢いたい 木下とし子」(日本文学館)という小さな本が目に入った。

表紙一杯に空と海の広々とした写真があり、裏表紙にはの写真が載っていた。 

目次を見ると、最初に「朱い色の記憶」「呪文と念仏と」などがあり、最後の方に「骨壺蛸壺」「私の前生は布切れかも」とか「三途の川の川幅は」などがある。この本の著者は般若心経の本を読んでいるのかもしれない。 

  

「あとがき」に作者は次のとおり書いている。

 

「戦前、戦中、戦後と七十七年生きてきました。

その間に、生活様式も人々の価値観も激しく変わり、とてもついていけないと感じはじめた頃、膀胱ガンを患い障害者手帳を持つ身になりました。

それから十二年、手帳とともに生き、不安と諦めの中から「書く」という幸せを見つけました。

しかし、ほんとうの思いを書くということはとても難しく、(おり)のように心の底に溜まった苦しみや悲しみは、時間をかけて浄化しなければ書けないように思います。

若いときに想像していた「老い」と現実の「老い」の落差を素直に受け止め、これからもその時々の思いをそっと(すく)って書いてみたいと思っています。」

           

この本の作者は日本が太平洋戦争に突入した昭和16年12月8日には小学校5年生だった。「朱い色」とは大空襲で町が燃える色である。「骨壺」とは作者の夫が作った丹波焼の壺である。

阪神大震災の折に墓地の惨状を目にし、無縁仏の多さに驚き、墓を作ることは諦めた。私の骨は太平洋に散骨したい。そのときこの上等の骨壺も一緒に波間に沈めてもらいたい。そしたら蛸が取り合いするだろうか。この壺の住人になった蛸は、今はやりの六本木ヒルズに住むセレブになるのかな。そんなことをクラス会で話したら、『もったいないことせんと僕にちょうだい』と言った男性がいた。---」と、

この作者は少女時代の切ない思い出、家族のこと、阪神大震災福知山線事故のことなど、主婦の目線で時にはユーモアを交えながら切々と書いている。珠玉の小編エッセイである。

    

手作りの骨壺を手に明易し

       (薫風士)

     

般若心経についての本を数冊読んだ結果、俳人高浜虚子辞世句について新解釈をふと思いつきブログを書いた。ささやかなブログであるが、俳句に興味のある方にはかなり読んで頂いているようである。 

ふとしたことからブログを書き始めたが、本との出会い人との出会いなど、不思議なに恵まれている。

そのことに感謝しながら「LOVE」の実践を「(かい)より始めよう」と心掛けているこの頃である。

  

(注)

LOVE」に人の生き方の指針になる英語の言葉24語の頭文字を当てはめています。

子供の教育の参考になれば幸いです。是非ご覧下さい                    

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本との出会い(2)「尾曲がり猫と擦り猫と」を読んで選挙を考える。(リンク増補版)

       

20222

本との出会い(1)で「あの海にもう一度逢いたい」を紹介したが、この著者は「尾曲がり猫と擦り猫と」(文学館)というささやかな本も書いている。このエッセイ集には胸を打たれるものがある。特に「石ころ」には胸を打たれた。

戦争を知らない世代でこの「石ころ」が何を意味するか分かる方がいるだろうか? 

石ころ」の話を親か誰かから聞いたことがあるだろうか?

先日NHKのテレビ番組で猫の可愛い仕草などの動画を報道していた。このような番組を笑って楽しめる現在の平和な日本は多くの筆舌しがたい犠牲の結果得られたものであることを忘れてはならない。

広島原爆を投下した「エノラ・ゲイ」の機長ティべッツ閻魔様に会わせてもらったった夢(?)の話、「千の風に乗って――地獄からの年賀状――」も読んでほしい。     

小学2年生の時に「墨で部分的に消された教科書」で勉強した記憶がある世代の一人としてはこの本を多くの方々に是非読んでほしいと思う。 

安倍さんは「アベノミクスの是非を国民に問う」ということで衆議院を解散した。第Ⅰ次安倍内閣では政権を放り出したが、臥薪嘗胆した安倍さんは第2次安倍内閣ではよく頑張っている。民主党政権交代千載一遇のチャンスを十分活用できず自滅した。野党は、「今度の選挙は大義名分が無い」などと言っていないで、しっかりした政策を掲げて国民の信を問うべきだろう。ネガティブキャンペーンをしている政党を支持する気にならない。

解散が宣言された議会のニュースで「御名御璽」という言葉があった。この言葉が現在の憲法の下でも使われていることを迂闊にも知らなかったので驚いた。しかし、天皇は「日本国日本国民統合の象徴」であるから当然のことだろう。

戦前は天皇は「現人神」であり、紀元節など祭日の学校の式では「御名御璽」と言われるまで全員が教育勅語を頭を下げて聞いていなければならなかった。「御名御璽」と聞いてようやくみんなが一斉に頭を上げて鼻水をすすった記憶がある。

学校の式典における国歌の斉唱国旗掲揚是非が問題になって久しい。オリンピックのみならず学校などの行事でも平和国家の象徴として国歌や国旗が正々堂々として自発的に用いられる日が来ることを切に望んでいる。

日章旗」が軍国主義の象徴ではなく、平和のシンボルとして世界の人々に受け入れられるようにするのは政治家の責任であり、与党の責任は重大である。

   

野党は「今度の解散は大義名分が無い」などと与党の批判をするばかりでなく、「国家の安寧のため、世界の平和のために自分たちはこうする」という具体的な政権公約を明確にすべきだろう。単に「改憲は改悪だ。改悪を阻止する」というだけでは駄目である。

平和憲法戦勝国に押し付けられたものだから改定すべきだという考えがある。仮に押し付けられたという経緯があるにしても、それは数知れぬ戦争犠牲者がもたらしてくれたものであり、良いものは維持すべきである。世界の平和を維持し、日本の自衛権を行使するための国際協調をするのに現憲法の条文に不明確な点があるということなら、「国際協調とは何か」「自衛権の行使とは何か」など、法令や運用基準で明確に定めるべきだろう。

一内閣がその時の都合で憲法解釈を如何様にでもできるということがあってはならない。それは独裁政治を許すことになるだろう。    

今度の選挙は単なるアベノミクスの是非の問題ではない。戦後70年節目になる重要な選挙であり、日本の将来を左右するだろう。

独裁政治・独裁体制をもたらすことになるか否か、政治家を選ぶ選挙民の責任も極めて重大である。

現行の選挙制度では浮動票の投票率が選挙結果に大きく影響する。

特に、若い世代は選挙に棄権しないようにしてほしい。

若者は政治的無関心でいると自分たちの将来の幸せを失うことになるだろう。

           

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2014年12月11日 (木)

本との出会い(4):「悪党芭蕉」と「大悪人虚子」(改訂版)

   

   

今回は、虚子が「初空や大悪人虚子の頭上に」の句を作ったときに意識していた「」は何だったか、を考える。

   

高浜虚子没後50年記念として平成21年4月に出版された「高浜虚子の世界」(角川学芸出版「俳句」編集部)の最後に「私の虚子」というタイトルのアンケート記事がある。

アンケート①は「愛誦句3句」をあげることになっており、著名な俳人や歌人などの回答者48名のうち、16名が「去年今年貫く棒の如きもの」を挙げている。

   

小池光氏(歌人)は「悪人虚子」という見出しで、この「去年今年」の句の他に「天の川のもとに天智天皇と虚子と」「初空や大悪人虚子の頭上に」を挙げている。そして、アンケート③「いま、虚子について思うこと」については次のとおり回答している。

   

「③ 要するに保守本流の総大将で、短歌では斎藤茂吉みたいなもので、乗り越えねばならない存在と若いころは決めつけていたが、心空しく読んでみたら茂吉の面白さは無類で、すると虚子もやはり俳句は虚子だと思ってしまうのでないかと、恐れつつ思っている。前の2句など、実に得体が知れない。天智天皇と自分を並べる発想、自分を大悪人と規定する発想、どこからなにゆえ出てくるのだろう。棒の如きものはそれから三十余年の後の作だが、こう並べると妙に交錯して、棒の太さと貫く膂力(りょりょく)の大きさがえらく巨大に感じられる。およそ一筋縄では行かない恐ろしいものが、花鳥諷詠の陰でニタリニタリと笑っているような気がする。」

     

       

      

上記句評の「およそ一筋縄では行かない恐ろしいものが、花鳥諷詠の陰でニタリニタリと笑っているような気がする。」という表現にはちょっと引っかかる。

それはともかく、虚子が一方で「天智天皇と(臣)虚子と」と言いながら、他方で「大悪人虚子」と俳句にしたのは何故だろうか?     

この疑問の解決を私なりに見つけてみたい。

   

「天の川」の句は、稲畑汀子著「虚子百句」によると、大正6年に太宰府で作った句である。汀子さんは「初空や」の句について次のように述べている(抜粋)。

    

     

「大正7年(あるいは6年か)1月、虚子は、<初空や大悪人虚子の頭上に>という句を作っている。暦が更新され美しく澄み切った初空を仰いだ時、それを穢れを去った太初のように無垢な空と感じた虚子は、煩悩に満ちたわが身を振り返り己を大悪人と意識せずにはおられなかったのである。虚子が当時、己の中にどのような悪を意識していたかを詮索する余裕は今は無い。問題は虚子が悪を抱えてどう生きたか、それをどのように自らの作品に結実させたかである。参考になるのは虚子が『中央公論』の大正5年1月号に書いた『落葉降る下にて』であろう。

『これから自分を中心として自分の世界が徐々として滅びて行く其有様を見て行こう』『何が善か何が悪か』

一口で言えば虚子が選択したのは理性ではどうにもならない悪を抱える己という存在を事実存在として受け入れ、責任を引き受けつつ、あるがままに生きるという途であった。

それはまことに文学者らしい生き方であるが、辛い覚悟を要したはずである。虚子はその辛い途を俳句の存問という方法によって歩んだのである。虚子は自己との存問、自然に対する存問を繰り返し、長い時間をかけてついには超越者と存問を交わすようになる。・・・・(省略)・・・・長い期間の存問を経て虚子は我執を脱ぎ捨てたのである。

・・・・(省略)・・・・ 虚子はもう善悪彼岸に立っている。」

    

   

上記の「責任を引き受けつつ」とはどんな責任なのだろうか?         

坊城俊樹さんは「虚子の100句を読むにおいて、虚子が大正4年4月に作った句「春惜む輪廻の月日窓に在り」を取り上げて虚子の四女「六」の病死について触れているが、その責任のことだろうか? 

     

一方、坊城俊樹さんは「虚子の100句を読む」で「天の川」の句について次のように述べている(抜粋)。

     

「虚子は郷里松山での兄の法事に出て九州に船で着いた。そして太宰府を参拝し、都府楼 に佇んでいた彼は何を思っていたのだろう。 ・・・(省略)・・・ 同時に、今このときは日本のために、そしてかつて天智天皇がこの地で唐などからの国土防衛をしたことにおもいを馳せる。その時虚子はいたたまれず、自身もこの天皇の一臣下として国を護ろうと思ったのである。
 虚子のこの懐古とはすなわち、故郷へ向かったあとのその余韻とともに、日本の歴史への懐古そのものを言っている。

都府楼址は、礎石の柱の址がただ延々と続く。そこはだだっ広い空き地のようなもの悲しさである。夕刻には、かの有名な観世音寺の鐘が響く。それは千年を超えた虚子と天智天皇の君子の交わりの鐘の音であった。
この句は『五百句』に、

 
天の川の下に天智天皇と虚子と     (虚子)

  
と.「臣」の字を削除して掲載されている。

  
これは、昭和十二年刊行の当時、大政翼賛会
設立前夜としての抑圧に屈したとしか言いようがない。虚子ごときが天智天皇の「臣」たるは何事ぞ、というわけである。しかし、仮に時代がそうだとしても、この句では本来の虚子の臣たる高揚感と意味が異なってしまう。ましてや、この句では天智天皇と虚子が並立に存在するが如きでよほど不遜ではないか。

筆者および、その周辺ではこの句はあくまで掲句のような「臣虚子」であることに意味があるとして、あえて『五百句』の禁を犯した。

  
もっとも、『五百句』でかように記されていたこの句は、昭和三十一年刊行の虚子自選の『虚子句集』にはすべて掲句のように戻されている。それが虚子のほんとうの心情であったことは明確である。・・・(以下省略)・・・」

        

              

俊樹さんの上記の句評を考慮すると、虚子の意識した『悪』は稲畑汀子さんが上記のようにとらえた『悪の意識』の他にも何か俗世界・世相との関係において考慮すべきことがあったのではないかと思う。

「高浜虚子」に関するウイキペディアの記事(抜粋)によると、「子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。」とある。

    

虚子は「世間が己を悪人と言うならそれも甘受して、自分の信念を貫いて行こう」という決然とした清々しい気持ちで「初空や」という句を作ったのだという解釈も可能ではなかろうか?

    

虚子の句についても解釈が当を得たものになるかどうかは、長谷川櫂さんの指摘した「場」をどのように想定するか、虚子と「場」を共有できるか否かで決まる。

   

なお、虚子やその俳句に対する批評に関するブログを検索すると、この「場」をわきまえず、虚子の人格や俳句を悪しざまに批判しているブログが見受けられることは嘆かわしい。死人に口なしだから義憤を感じてこのブログを書き始めたが、虚子は「そんなことは俺は超越していたよ」というのだろうか?

なお、「エコブログ」(作者はかわからない)に「敵といふもの今は無し秋の月」という虚子の句をタイトルにした興味深い虚子の句評があった。その記事の一部を抜粋すると、

「天皇を信じていなかった鴎外、戦争の大義も敵の存在も信じていなかった虚子。しかし、鴎外天皇の藩屏として、虚子は日本文学報国会俳句部長として身を処した。彼らの心中を思い、いま、北朝鮮にいるだう鴎外や虚子のことを思った。」とある。

    

まさに、現在の北朝鮮の状態は戦前の日本の有様を彷彿とさせる。虚子は文学報国会俳句部長としてどのように対処したのだろうか? 戦争を美化する文学や俳句には加担せず、ただひたすら花鳥諷詠を唱道し続ける他に道がなかったのだろう。

 

虚子は「俳句を『極楽の文学として世界の民衆や世界平和のために広げてくれよ」と天国浄土から国際俳句協会の活動にエールを送っているかもしれない。

     

         

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2014年11月22日 (土)

俳句仲間(アカネの酔客)のエッセー(1)「ラジオを録音して聞く話」(昭和史を聞いて下さいね。)

    

(インターネット・リンク追加版) 

  

毎月、俳句会の後で酒を飲みながら俳句談義や趣味の話などに興じている。今月はブログの自慢話(?)をしたところ、話が弾み同席の方の随筆を掲載させて頂くことになった。それぞれの味があって面白い。

まず、昭和9年(1934年)生まれの大学同期会のホームページにA氏が今年の5月に寄稿した随筆「ラジオを録音して聞く話」です。テレビに無いラジオの面白さ・メリットの新発見の話です。

    

(青色の文字をクリックすると、その記事や関連の解説記事などがご覧になれます。)

   

    

    

    

    

    

    

          ラジオを録音して聞く話

                         2014年5月

                         

     昔から本は良く読む方だったと思う。仕事を止めて一年くらいか家を引っ越すこととなり、その時に大量の本を整理したと言うか捨てた。これに虚しさを感じまた暇は十分にあることもあり、その後は専ら図書館で本を借りて読んだ。月に20冊くらい借りて、その内の半分くらいはちゃんと終わりまで読んでいたと思う。ところが70歳を過ぎた頃から、本を読むと目が疲れるようになった。所謂、眼精疲労である。単なる老化かと思っていた。或る日、医者に紹介された近所のメガネ屋に行ったところ、技術の大変高いことを自称するメガネ屋であった。医者の作った診断書は無視され詳細に検眼され、お前は斜位だと言われた。両眼の視力が大きく異なることは自覚していたが、斜位と言う言葉は初めて知った。そして高価な近眼と老眼のレンズを買わされた。

      斜位と言うのは、斜視の軽い奴のようだ。普段は、周りも本人も全く気づかないが、矢張り眼精疲労にはなり易いようだ。と言うような訳と、借りる本が段々となくなってしまったこともあって、次第に図書館通いは少なくなった。今は全く行っていない。

     その代わり、テレビは良く見るようになった。なにせ夜は8時に寝てしまう生活を仕事を止めてからずっとしているので、多くは録画してである。最初の何年かは専らテープでの録画、4-5年前からはDVDである。良く見るのがNHKのEテレ・BSプレミアム・総合、BS1も少し見る。民放も見るが多くない。スポーツ番組は、殆ど見ない。サッカーは目が疲れる、また動体視力の低下の故か、決定的瞬間が良く見えない。ゴルフは見るが、韓国勢が上位に並ぶと見るのを止める。見る物が少ない時は、民放のサスペンス物も見る。NHKの大河ドラマの類は、やたらに怒鳴るのが嫌いなので見ない。 

民放を見ることが少ないのは、出演している人の數がやたらに多く更に芸人と称する人も多く、煩く感じるのが理由である。民放のサスペンス物も、観光案内を兼ねたようなのんびりとした物は好きだが、最近はこういうのが少なくなった。

      ところがこの1年ほど、NHKも民放の番組に似て来た。矢張り世の中の趨勢なのであろう。爺・婆は対象から外れて来ているのであろう。それで見る番組が減って来た。またテレビを見ても目の疲れを感じることが多くなって来た。特に出演者が多くガチャガチャした民放の番組は目が疲れる。

      ラジオは今まで、車を運転している時に時たま聞くことはあった。何時もお喋りが多いと思って来た。要するに暇な無責任な会話である。家内が何年か前からラジオを聞いているが、矢張りお喋りが多いと私は思って来た。この無責任なお喋りはどうも聞く気になれない。

      ところがこの1月になり、ネットで調べて出てきたNHKラジオの第一、第二、FMの番組案内「らじる*らじる」を見ていたら、土・日に集中してはいるが教養番組が多くあることを知った。このNHKラジオの番組案内は、番組の詳しい説明もあり大変有効である。そこでラジオに興味を持った。前に述べたようにテレビは殆ど録画して見ているので、ラジオも録音出来ないかと調べて見たら、「ラジクール」と言う無料のソフトをダウンロードすれば良いことが判った。ところが、このダウンロードを一度試みたが上手く入らなかった。

 そこで、録音したラジオはどうせ気楽な姿勢で聞くことになるであろう、それにはパソコンは不向きではなかろうかと考えた。そして、録音出来るラジオは売っていないかとネットで調べてみたら、2種類ほど出て来た。通信販売でそのまま買おうかと思ったが、どうも爺さんはこれに少し抵抗があるので、1月末に近所の家電量販店に行った時に見てみた。なんと録音出来るラジオはたった1種類、大きさはその昔の弁当箱くらいで重さも軽かった。ベテランらしい店員さんに何に使うのですか?と聞かれる始末で、どうも録音出来るラジオと言うものは沢山売れている様子ではなかった。

      兎に角、そのラジオを買った。店頭価格17,000円のSONYのICZ-R51と言う奴である。

      初めは、「らじる*らじる」で調べたNHK第二ラジオの教養番組を主に聞いていた。その殆どの番組が週に一度の放送で3か月単位で成り立っている。2月初旬は、この中途であったので、中途から聞き始めることになった。今は4月から始まったものを聞いている。ちゃんと聞いている番組の一つが、古典講読と言う番組の「奥の細道」である。講師の喋り方が大変眠気を誘うので、しばしば眠ってしまうが、録音の有難さで巻き戻しをして聞いている。「奥の細道」をちゃんと読んだことがないので、この機会と思っている。内容それ自身も、かなり面白いが、こういう物を研究している人たちは、こう言うことをあれこれと詮索するのだと言うことを知る意味でも面白い。極端に言えば、証拠のないことを糞真面目に論じる邪馬台国研究に少し似ている。

      短編小説の朗読も面白く聞いている。この手の物をかなり長い間読んで居なかった為だろうと思う。いずれにせよ、ラジオでは喋るのはひとりかふたり、喋りまくられる心配はない。しかし、録音して置いて実際に最後まで聞くのは、半分以下或は三分の一くらいであろうか。

     2月中旬か下旬頃に、「らじる*らじる」を見ていて、ラジオ深夜便と言う番組があることに気が付いた。これも「らじる*らじる」で中身をかなり詳しく知ることが出来る。夜の11時台から始まり、一時間毎に区切りが入って、6ッの番組から成り、朝の5時に終わる。2時台と3時台は音楽番組である。一区切りの中に、ニュースや音楽やお知らせなどが入るから、一区切りの中のメイン物の時間は30~40分であろうか。

 

    このような時間を誰が聞いているのであろうか?深夜族は今非常に多いので、深夜2時までの番組は聞いている人が居ることは理解出来る。しかし4時台の番組はどんな人が聞いているのであろうか?早く目が覚めてしまう早起き爺さんであろうか?そうすると2時までの番組を聞いている人とは別の世界の人と言うことになる。

     歌番組を除いて毎日4番組、一時間当たりの中身が約40分として、毎日約2時間40分となる。初めは、「らじる*らじる」を見て選択して録音していたが、今は機械的に録音している。「毎日録音」を選択すれば毎日同じ時間を録音して呉れる。詰まらない内容の物も多いので録音しても最後まで聞くのは、実際には三分の一から二分の一となる。

    かなりの頻度で聞いているのが、通信員と言うのか各地に住んでいる人の現地報告である。日本に住んでいる人の話は新鮮味に欠けるのであまり面白くないが、外国に住んでいる人の話は大体面白い。

     この原稿を書くことを予告された5月初めから、聞いて特に印象に残っているのは次のようなものである。一つ目は雨水の利用である。墨田区役所に勤務し始めて僅か5年くらいの時に、ここに集中豪雨による被害が出た。そこで専門外の若僧ではあったが雨水の利用を提案して検討チームを結成し、まず国技館にこれを敷設した。今は全国の新設の大きな建物では全てトイレの水は雨水をなっているようだ。スカイツリーもそうのようだ。今はこの人はバングラディシュで雨水の利用のプロジェクトを推進して、年に半年はバングラディシュに滞在していると言う。バングラディシュでは、地下水に天然の砒素が混入しているのだそうである。

    二つ目は、「昭和史を語る」である。4回番組で先日は昭和2年と3年とをやっていた。大正天皇は12月25日に逝去されたので昭和元年はなきに等しいと言うのも改めて認識した。浅草と上野の間に日本で初めての地下鉄が開通したのが昭和2年とか、ラジオ放送が大正14年の3月に始まったとか、その時の録音が残っていてそれが放送されるとか、関東大震災が大正12年だったことも改めて認識した。昭和恐慌が、その時の大蔵大臣の不用意な発言が元で銀行の取り付け騒ぎが起こったのが発端であったと言うのは初めて知った。

ニュージーラン人で剣道7段、居合術5段、薙刀5段で武道の研究で京大で博士号を取った人の話も面白かった。「残心」なる言葉を初めて知った。広辞苑によれば、「残心」は、剣道で、激突した後、敵の反撃に備える心の構えとある。「道」である相撲で、勝った時にガッツポーズをするのは怪しからんと言う非難の声が一時あったと思うが、この意味も初めて判った。

    と言うように、この2月から録音してラジオを楽しんで居る。テレビには少なくなってしまった爺・婆が楽しめる番組がラジオにはまだ多いと思う。、この文章が誰かの為のなんらかの参考になれば幸いと思う。

   

(注:ブログの見方)

青色の文字をクリックすると、その記事や関連の解説記事などがご覧になれます。ここ(らじるらじる)をクリックするとNHKネットラジオの詳細について検索できます。「昭和史を語る」をクリックして、表示されたリストのタイトルをクリックしてその内容の触りを音声で聞くことが出来ますよ!

2014年11月17日 (月)

お友達のエッセー:「忘れ得ぬ最高の思い出」

    

タイトルのエッセーは作者(出羽正義さん)の大手商社勤務当時の楽しい思い出です。

「昭和や」でのブログ・川柳談義の際にチュヌの主人が非常に愉快な話だと思ったので、掲載させて頂くことになりました。下記のエッセイをご一読下さい。

           

1978年12月、一か月の米国出張が終わりに近づいた時突如本部から「Argentine, Venezuela, Chileに立寄り出張の上帰国されよ。用件は追って連絡する」との指示が入電。南米の担当から外れていた私にこの追加出張命令、何故?とは思いましたが小躍りして喜びました。

実は、高校時代 私の田舎町にどう言う訳か「さらば草原よ」と言うアルゼンチン映画が来まして、それを見た私は以来頭から片時も離れない位にこの歌に魅了されてしまい、あの国の土を踏みたいと言うのが夢の夢になっていました。

そして就職、新入社員の身上調書に「行きたい外国名を記入せよ」と言う欄があり、ずうずうしくもそこにArgentineと書いたのでした。同国とは取引はなかったのですが…。

さらに’78年から遡ること10年前 ’68年に初めての海外出張で南米Colombiaへの10ケ月の出張終了間際「Argentineに立寄れ」との指示が入ったことがあったのです。夢実現と狂喜しましたが、翌朝「昨今の経済情勢に鑑み貴台の出張命令は取り消す」という入電! 天国から地獄とはこのこと、涙を飲みました。 

そんなことがあったので、今度こそ機を逃さずと早速飛び立ちました。Buenos Aires B.A.到着の翌日メーカーの担当者二人がジョインしてくれました。

同国には旭化成のアクリルプラント輸出が決まっており私の所属課(繊維)では市場開拓用の原料綿を輸出しておりました。おおむね順調な取引の中である特殊なスペックの契約品が引き取られず、日本で長期在庫になって困っていました。経常取引の打合せの他にこの在庫の引取をさせろ、というのが私への指示でした。

初日 訪日して件の契約を置いて帰った番頭格の常務に面談しましたが、この在庫の話になると言を左右にしてのらりくらりと逃げ回りばかり。

翌日は朝早く7時!に会長との面談。表敬訪問が主でしたから、一般情勢やアクリル繊維の市場見通しなどを話題にしました。そろそろ終わりだというとき、会長がAnything else?と言ったので、すかさず長期在庫の件を持ち出し、善処願いたい、と要請しましたところ、会長は番頭さんを鋭くにらんで「ただちに引き取れ」と厳命、鶴の一声で,同社とのもめごとはあっけなく解決したのです。

もうすることがなくなった我々はBAの見物に出かけました。同市はラテン・アメリカという言葉から想像するのとはかなり違い、まるでヨーロッパの如しで、パリの街に埃をかぶせたごとき街並みでした。港へ行き アルゼンチンタンゴ発祥の地と言われるカミニート(小径)通りも歩きました。小さい土産物屋、飲み屋、軽食堂などが それぞれが原色のペンキで塗られて両側に並んでいる狭い通り。この小路を題材に作曲された曲が申すまでもなく「カミニート」です。

シエスタ(昼寝)の習慣があるからでしょう、B.A.の夜の賑わいは遅くから始まります。レストランは9時、タンゴ劇場は11時にオープンという遅さ。我々がこの二つをこなし、気持ち良い夜風の吹く通りに出たのは午前1時を過ぎていました。酔っぱらった勢いで、深夜の街を行方を定めずブラブラ フラフラと歩いて行きました。と、人通りが途絶えた辺りで、ドアを開けたままのバーがあり、そこからタンゴをひくピアノの音が漏れてくる。薄暗い店内では6~7人の男どもが飲んで騒いでいる。左奥にピアノと奏者がいました。我々は恐る恐る入ってテーブルを占めるとワインやビールを注文してピアノに耳を傾けていました。そうする内私はこのピアノ伴奏に合わせてタンゴを歌いたいと言う気持ちが抑えがたくなってきましてピアニストに頼むと快諾してくれましたので、はやる気持ちを抑えて「カミニートCaminito」「さらば 草原よAdios Pampa Mia」「ガウチョの嘆きSentimiento Gaucho」の3曲を歌いました。終わった時は興奮で天にも昇った気持ちでした。翌日は仕事もないので 急ぐこともなく また、ブラブラとホテルへ帰りました。

このバーを出るとき看板を見ると”Oscuro Rincon”。これは「ガウチョの嘆き」の歌詞にそのままの言葉があります。

  “En un viejo almacen del Paseo Colon,     

   donde van los que tienen perdida la fe,

   todo sucio, harapiento, una tarde encontre

   a un borracho sentado en oscuro rincon.

 (注:スペイン語文字になっていません)

          

  

  

上の写真は 翌日街で見つけた画。

タンゴを歌ったバーとよく似ているので買ったものです。

看板には“El Viejo Almacen”とあります。

        

 アルゼンチンタンゴの発祥の地 B.A.で現地のピアニストの伴奏でタンゴを歌った時、これが私の忘れがたき人生最高の瞬間でした。

その後タンゴを歌う機会は絶えてありませんでしたが、私の所属の合唱団がCaminitoをレパートリーに加えましたので、その演奏の度にあのCaminito とあの日のことを思い出しながら歌っております。    

                                                       以上

  

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