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2015年1月18日 (日)

虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」の棒とは何か?

      

    

掲句について稲畑汀子さんは「虚子百句」において次のように述べている(抜粋)。

     

昭和25年12月20日虚子76歳の作である。

・・・(省略)・・・ 

去年と言い今年と言って人は時間に区切りをつける。しかしそれは棒で貫かれたように断とうと思っても断つことのできないものであると、時間の本質を棒というどこにでもある具体的なものを使って端的に喝破した凄味のある句であるが、もとよりこれは観念的な理屈を言っているのではない。的な把握なのである。体験に裏付けられた実践的な把握なのである。

・・・(省略)・・・

ところで棒とはなんであろう。この棒の、ぬっとした不気味なまでの実態感は一体どうしたことであろう。もしかすると虚子にも説明出来ず、ただ「棒」としかいいようがないのかも知れない。敢えて推測すれば、それは虚子自身かも知れないと私は思う。

この句は鎌倉駅の構内にしばらく掲げられていたが、たまたまそれを見た川端康成は背骨を電流が流れたような衝撃を受けたと言っている。感動した川端の随筆によって、この句は一躍有名となった。・・・(以下省略)」

    

      

    

     

汀子さんは上記の如く述べているが、この句の「棒」は虚子の信念・意志を象徴していると思う。

「貫く棒の如きなり」と言わず、「貫く棒の如きもの」と言っているから「時のながれ」というよりも虚子の俳句に対する考えや信念の強さの比喩に違いない。

虚子俳句の痴呆性」を云々する人がいるが、この「去年今年」の句には「大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る。」という坂本龍馬の言(勝海舟に説明した西郷隆盛の評価)を当てはめたい。

文学に限らず、音楽や絵画など、芸術は個性を表現するものであり、それをよく理解できるか否かは鑑賞する人の性格や人生観、能力などが左右する。まして、俳句は17文字で表現する短詩であり、論理ではなく感性にうったえるものである。従って、俳句はその作者と「場」を共有するか、それが作られた「場」を適切に推定することが出来なければ理解できないことがある。

特にこの「去年今年」の句のように比喩的な俳句はそうである。それを読む人が卑しければ卑しい句であると誤解されることになる。

逆に、読む人が優れていればその句を作った人の意図以上に解釈されることも珍しくない。

それは俳句の本質的な限界でもあり広がりの可能性でもある。中立的な表現の俳句は鏡のように、読む人の心を映しだす。

虚子はこのような俳句の面白さもこの句に織り込んだのではなかろうか?

     

     

   

   

深見けん二さんと白鳥さんは対談で次のように述べている。(抜粋)

   

「白鳥: 私は、これが虚子の句だ、と意識して読んでいたのが、

去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの

戦後にお作りになったこの句に出会った時―私の青年期というか、大学生だったんですが、あの頃のことですから、新しい思想や何やらがゴチャゴチャに入ってくるじゃないですか。ふらふらしながら、右往左往しながら生きている時に、その『貫く棒の如きもの』を、そんなものを自分で確信できる人がいるんだな、という、そういう感じで凄い衝撃を受けたことがございましたね。

深見: そうですね。あれは新年のために作ったもので、ちょうどNHKの放送番組で句会をして、それをラジオで流したわけですね。その時にお出しになった句でして、ほんとに『去年今年(こぞことし)』というところが大事なところで、『去年今年』というのは、一年が過ぎていって、そして新しい年を迎える。その時の気持でありまして、そういう時に改めて『貫く棒の如きもの』という気持をお持ちになったと。先生の言われるのは、一番大事にしている季題というものもすべて四季の運行、春夏秋冬が次々に巡っていくわけですね。・・・(省略)・・・そして日常はほんとに朝起きて、そして仕事をして、そして暮らしていくうちに年月が巡るという、そういう中の生活ですからね。ですから宇宙の中に入ったそういうものが出ている、という感じもしますね。」

       

          

    

     

大岡信さんは「百人百句」において、「俳句という最小の詩型で、これだけ大きなものを表現できるのはすごいと思わざるを得なかった。」と次のように述べている(抜粋)。

  

「・・・(省略)・・・昭和20年代後半から30年代にかけては『前衛俳句』の黄金時代で、若手の俳人はそちらに行ってしまい、虚子は一人さびしく取り残されている感があった。

・・・(省略)・・・私は現代詩を書いていたので、・・・(省略)・・・どちらかというとはじめに前衛派的な人々の句に親しんだので、それから逆に句を読み進め、高浜虚子を初めてというくらいに読んでみた。すぐに感じたのは、虚子の俳人としての人物の大きさだった。

私は常々現代詩を作り、・・・(省略)・・・斎藤茂吉が好きだったので茂吉の歌もよく読んでいた。しかし、『去年今年』の句を読んだときに、俳句という最小の詩型で、これだけ大きなものを表現できるのはすごいと思わざるを得なかった。・・・(以下省略)」

      

    

      

   

       

この句についてインターネットで検索していると、宗内敦の「アイデンティティ-第二芸術」というタイトルの傑作な記事があった。

    

「去年今年(こぞことし)とは、行く年来る年、時の流れの中で感慨込めて新年を言い表す言葉である。しかして虚子のこの一句、『貫く棒の如きもの』、即ち、時の流れを超えて『我ここにあり』と泰然自若の不動の自我を描いて、まさに巨星・高浜虚子の面目躍如たる『快作にして怪作』(大岡信『折々のうた』)の自画像である。

それが何としたこと、バブル絶頂の頃だったか、ある新聞の本句についての新春特集ページに、『この句を知ったとき、顔が火照り、胸がときめき、しばらくは止まらなかった』という中年婦人の感想文(投書)が載せられた。

一体何を連想したのか。破廉恥にも、よくぞ出したり、よくぞ載せたりと、バブル時代の人心・文化の腐敗に妙な感動をもったことを思い出す。・・・(以下省略)」 

(詳細はここをクリックしてご覧下さい。)

    

         

      

  

因みに、佐藤治氏は、「虚子と第二芸術論その他」(名大望洋会・東京望洋会)に下記のとおり述べている。(詳細は「ここをクリックしてご覧下さい。)

    

    

「私見によれば、虚子はひょっとすると第二芸術論の三年後に詠んだ代表句<去年今年貫く棒のごときもの>でこれに対する回答を示したのではないだろうか。ただし、それには信条とする花鳥諷詠、客観写生句を離れて心象句を以ってせざるを得なかった。これを機 に俳句の新しい方向を模索し、子規の教えを忠実に守ろうとしたのではないか。この名句の底は極めて深いと改めて思うのである。」

    

      

    

         

     

上記のように、俳句は読む人の想像次第で融通無碍に如何様にでも解釈できる。

  

この句を作ったとき虚子は夏目漱石の「草枕」の冒頭にある有名な文「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」も意識していたかもしれない。

  

この句の「棒」のイメージは、「草枕」の「情に掉させば流される」という文句や方丈記の名文句美空ひばりのヒット曲「川の流れのように」の歌詞など、時世・人生を表現するのに用いられる「川のながれ」とは全く異なり、力強くて斬新なものである。

虚子は「深は新なり」とか「古壺新酒」と言っている。花鳥諷詠」と「客観写生」を唱道していたが、「前衛俳句」の黄金時代にあって、「去年今年」の句を作ることによって「これも『花鳥諷詠』だ」と、その幅の広さと虚子の信念と自信をアッピールすることを意識していたのではなかろうか。

俳談」や「俳話」なども読み、虚子の考えや作句の「」を知るにつれて虚子の俳句をよく理解できるようになる。インターネットのブログを検索していると、様々な俳句の解釈があり面白い。

この「」をわきまえず、俳句のみならず作者の人格まで悪しざまに云々するブログを見かけることもある。それを鵜呑みにしている人もいるようで困ったものである。

    

   

     

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コメント

解釈者によって違うとだけ書けばいいのに、卑しい人には卑しく、優れた人には優れて見えると言ってしまうあたり、ふだんから歌人の人らしく相互評価とマウンティングのことばかり考えてらっしゃることがよく響いてきますね。

TVのプレバト番組の威力か、
昨日からこの記事を多くの方がご覧になったようで、
アクセスが一日で1000件を超えたようです。
しかし、この記事はアイポッドでは一部分しか見れないことが分かり、驚きました。
スマホでも同様に見れず、ご迷惑をかけたかも知れないので、
大急ぎでスマホ用に改定・再録しました。
虚子の俳句「去年今年貫く棒のごときもの」の棒とは何か? 
(改定版)
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2019/12/post-eced.html
をご覧下さい。

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ご投稿をお待ちしています。
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「新元号祝ひ『花見』の俳句詠む」
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「吟行の写真俳句集」
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/pictureandhaiku.html
をお楽しみ下さい。

「声なき声」とは何でしょうか?
「亀鳴くや声なき声を聞けよとて」
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2017/12/post-e4bd.html
をご覧下さい。

「本との出会い <母と子・優しさと厳しさと>」
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2017/11/post-e56b.html
をご覧下さい。

高浜虚子は「年を以て巨人としたり歩み去る」という俳句を作っています。
「高浜虚子の俳句と『護憲運動』のことなど」
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2017/10/post-06d2.html
をご覧下さい。

原句に近い納得できる英訳は次の通りです。
last year this year_
as if
a stick pierces

大岡信さんが亡くなられました。
ご冥福をお祈りします。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG05H6O_V00C17A4000000/?dg=1

宗内敦 様

「『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』(額田王)という万葉の恋歌をどう英訳したらよいか、ふと考えています。」とのこと、
「紫野」とは何か興味が湧きインターネットで検索したところ、
世界大百科事典 第2版の解説として「歌枕。現在の京都市北区紫野で,船岡山,大徳寺を中心とする地域。平安京北郊で宮廷の遊猟地であった。」とあります。
また、「行き」は「行幸」の意味だろうと思います。
したがって、「紫草の御料地をあちらへ行きこちらへ行きしながら、」という灰谷寛司氏の解釈は不適切でしょう。
「遊猟地や御料地にお出かけになり」と解釈して英訳するのが良いと思います。
額田王の恋歌の英訳に上記の解釈が参考になれば幸いです。
「チュヌの便り」への暖かい激励のコメント有難うございました。
今後ともよろしくお願いします。

 私の文章について、本ブログ欄でのご紹介、まことにありがとうございます。俳句の解釈から始まる、貴ブログ欄の充実には、目を見張ります。先日、恐縮ながら、私の頁からリンクを貼らせて頂きました。互いのご訪問者が両サイト間を往来して下さることを願っています。
 それにしても、「去年今年貫く棒の如きもの」の英訳に挑戦とはものすごいですね。私も今、ライフワークたる「カラー・ピラミッド・テスト入門」の英訳を何とかしたいと心配っており、その序章の中で、色と感情・情緒との関連にかかわって引用している「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王)という万葉の恋歌をどう英訳したらよいか、ふと考えています。和歌(短歌)の場合は情景がそのまま絵になってそのまま外国語化すれば何とかなるはずですが、
 例えば、灰谷寛司氏はこの歌を
「紫草の御料地をあちらへ行きこちらへ行きしながら、あなたが袖を振っておられるのを、野守は 見ていないでしょうか」と現代語訳してから、
 You ride back and forth through the Imperial fields of gromwell plants:
Isn't the groundkeeper watching your waving of the sleeves at me?
 と訳しています(もし、無事英訳本が出版できたら、灰谷寛司氏の英訳を引用させてもらおうかと、考えています)。これをリービ英雄氏はまずは
「茜色の あの紫草の野を行き その御料地の野を歩いてるとき 野の番人は見ていないかしら ああ あなたそんなに袖を振ふらないでよ」としてから英訳しているようです。
 和歌(短歌)の場合は、どちらにしても、歌の本質をそう大きくは離れないとしても、俳句の場合は、詩(うた)の本質が言葉で表現されていないところにあるので、これは至難の業。特に抽象化された句において然りですね。
 そういう意味で、「去年今年貫く棒の如きもの」についての考察の流れ、  
「俳句の新解釈・鑑賞 <去年今年貫く棒の如きもの(高浜虚子)>」において考察したように、主語(主体)は省略されている、すなわち、「俳句に対する虚子の信念」が省略されている、「去年今年」は客体である、と解釈する場合は次のように意訳できます。
   :
   :  
「去年今年」は文字通り英訳すると「last year this year」ですが、新年の季語としては不適切です。「去年今年」は高浜虚子が季語として確立したと言われていますから、日本語のまま「kozokotoshi」で使うのがよいでしょう。」
 には、大きく肯かされました。
 「チュヌの便り」の益々のご発展を祈ります。
fullmoon

日英バイリンガル俳句を楽しむ <高浜虚子の俳句「去年今年」>
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2017/02/post-01d8.html
をご覧下さい。

「虚子の俳句『去年今年貫く棒の如きもの』の棒とは何か?」で
リンクさせて頂いた宗内氏のブログのURLは変更されています。
下記のURLをクリックすれば、宗内敦氏のエッセイ
「人は何故書くのか」・「第二芸術論と高浜虚子」
がご覧になれます。
http://muneuchi.art.coocan.jp/essay/why%20we%20write/writig-index.htm
なお、宗内氏のブログサイトは
http://muneuchi.art.coocan.jp/
です。
「二言、三言、世迷い言」は興味ある著書です。
後日何らかの形で「チュヌの便り」の記事にさせて頂きたいと思っています。

日本経済新聞12月6日付「春秋」に
「歌人・斎藤茂吉は感情の人である。」という書き出しで、文末は
「昔のひとは気がつくと、『排外行進曲』に歩調を合わせていた。
見くびっていると、いまの世界も轍(てつ)をふむ。」
という興味ある記事があった。
斎藤茂吉はミュンヘンでヒトラーのクーデター未遂事件に遭ったとのことで、
「をりをりに群衆のこゑか遠ひびき戒厳令の街はくらしも」
という歌を詠んでいる。

高浜虚子の俳句「去年今年」について
現代俳句協会の「現代俳句コラム」に面白い句評があります。
http://www.gendaihaiku.gr.jp/column/view.php?act=detail&id=333
をご覧下さい。

戦争を知っている世代の著名な方々の訃報をよく目にするようになりました。
最近のニュースでは水木しげるさんや野坂昭如さんの訃報です。

雨宮処凛がゆく!
「水木しげるさんの死〜なぜ「戦争反対とは決して言いません」だったのか。の巻」
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/24461/
  
東京新聞の記事
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015121002000269.html

政治談議
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/essay-on-politics/

などをご覧下さい。

無料翻訳ソフトの開発が進んでいます。
一つ一つの単語の正しい発音をしてくれるのは素晴らしいが、
まだ英文として使える状態ではない。
Google検索で、
「去年今年貫く棒の如きもの 英訳」
と入力したところ、瞬時に次の英訳が表示された。
「Things such as bars last year to penetrate this year」
別のソフトでは次の英訳が表示された。
「Like rods through the last year.」
まだ、チュヌの主人も翻訳家として活躍できる余地は十分ありますね。

「去年今年」の季語を使った俳句を集めました。
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/12/post-57b0.html
をご覧下さい。

俳句と川柳の違いがよく話題になりますが、チュヌの主人は
「季語・季題」があれば「俳句」、「季語・季題」がなければ「川柳」
と、割り切ればよいと考えています。
両者の違いを主人の駄句で例示します。
・平和への思ひ夫夫(それぞれ)去年今年
・平和への思い伝えよ川柳で
  
「師走」の俳句を集めました。お暇があれば、
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/12/post-d12e.html
をクリックして、ご覧下さい。
良いお年をお迎えください。
  

高浜虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」
にインスピレーションを得てロクリアン正岡さんが作曲した
「時を貫く“南無阿弥陀仏”」を
YouTubeで仏像や世相の写真などを見ながらお聴きになれます。
興味ある方は
https://www.youtube.com/watch?v=qUIm4lffvTA
をクリックしてご覧下さい。

夏目漱石の「草枕」を読み返すと、次の記述が印象に残った。

「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするが故ゆえに尊たっとい。」


高浜虚子も同じ思いで俳句を作り、俳句を広めることに腐心したのだろう。

ご意見・コメントなど頂けると幸甚です。
(e-mail) aiqtrans@hi3.enjoy.ne.jp

高浜虚子の掲句「去年今年」に対照的な感じのする俳諧
「大晦日定なき世の定かな」
を井原西鶴が作っていることを知った。
(「ウイキペディア」の「井原西鶴」参照)

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