俳句雑感(5):「西瓜」(秋の季語)と「西瓜割」(夏の季語)について
(2024.10.7 更新)
重陽に吾庭の西瓜味見せり
熟せざる西瓜鴉に喰はれけり
(薫風士)
先日から鴉がよく鳴いていたので何故だろうと思っていましたが、早くも七夕の夜(?)に西瓜を4個も鴉に喰われました。
まだ熟していないから大丈夫だろうと思っていましたが、残念無念です。
年を重ねるごとに、時の流れの速さが加速しているように感じます。
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7月16日は「閻魔詣で」です。
「TOKYO 2020」の開催をワクチンの開発・普及が進み新型コロナウイルスの感染拡大の収束が期待されるまで2年間延期していたら、暗殺による安部晋三元総理大臣の非業の死も起こらなかったかもしれません。
「言葉の力・俳句の力《癒し》」や「俳句《涼し》死の話」をご覧下さい。
(2019.7.31)
初物の西瓜からすに食はれけり
掲句は薫風士のブログ用川柳もどきです。
(写真)
カラー図説 日本大歳時記の一部分です。
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俳句は川柳ほど人気がないのが現状ですが、俳句を作らない人々の大抵は「季語が難しい」と思っているようです。
次のことがその原因でしょう。
「『夏の季語』で俳句を作りなさい。」と言われ、普通の人は「西瓜」は夏に食べるのが美味しいと思って、「西瓜」の俳句を作ると、「『秋の季語』だからダメです。」などと言われて面喰い、不信感を抱いたり、俳句嫌いになったりするのではないでしょうか?
歳時記を金科玉条にして、「『西瓜割』は夏の季語だが、『西瓜』は秋の季語である。」などと素人には訳の分からないことをいう俳句の先生が沢山いるから、俳句は敬遠されているのではないでしょうか?
残念なことです。
当初の季語は旧暦(陰暦)の四季に基づいて分類されていましたが、その季語が新暦(太陽暦)の四季に当てはめられたことが混乱を生じて、更に季語を難しくしているのでしょう。
このことは、季語の本来の価値を損なっていると思います。
北海道から沖縄まで、地域によって季節の変化が異なります。
「俳句は自分が自然を見たまま、感じたままに素直に5・7・5にすれば良い。」ということが大原則でしょう。
俳句を作っているうちに、自然に「季語」の「取り合わせの妙」とナンセンスが分かってくるものです。
俳句の食わず嫌いの方には、自分の感性を信じて、歳時記の分類に捉われることなく、自然を見たまま、感じたままに、気軽に俳句を作り、俳句の面白さ・楽しさを知ってほしいと思っています。
日本大歳時記(秋)の「西瓜」の解説の最後に、「西瓜は普通秋の部に分類されるが、現実には夏のものである。」との記述があります。
合本現代俳句歳時記角(川春樹編)でも、西瓜は「秋の季語」として掲載されています。
「きごさい歳時記」(5,000季語の検索)では、「『西瓜割』は晩夏、『西瓜』は初秋』」に分類されています。
いずれの歳時記にせよ、絶対視せず、実際の自然の観察を優先して俳句を作るのが本来の俳句の楽しい作り方でしょう。
上記の考えに異論のある俳句の先生がおられたら、後学のためにご意見を頂けると幸いです。
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