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2015年3月19日 (木)

俳句談義(10):高浜虚子の「雛」の句を鑑賞する。

        

もたれ合ひて倒れずにある雛かな

   

掲句について、稲畑汀子さんの「虚子百句」には次の記述がある。

「明治30年、虚子24歳の作。・・・(省略)・・・虚子の気に入りの俳句であった。

子規の唱える絵画的写生の影響の見られる俳句であるが、『もたれあひて』という上五の字余りで何とも言えぬやわらかみと情緒を醸し出している。・・・(省略)・・・そこはかとない哀れの中に漂う雅に何とも言えぬ風情がある。

・・・(省略)・・・

同じ明治30年1月、碧梧桐は天然痘にかかり入院を余儀なくされる。幸い病状は軽く、一か月で退院するが、しかしその間に碧梧桐の婚約者であった下宿先高田屋の娘いとの心が虚子に傾いていたのである。

・・・(省略)・・・

虚子は6月にいとと結婚する。若い頃から能楽の素養を積んでいた虚子の心中は恐らく『恋の重荷』に押し潰されんばかりであったろう。いととの愛にかろうじて支えられていたのではなかろうか。」

   

雛よりも御仏よりも可愛らし

   

掲句について、坊城俊樹さんの「虚子の100句を読む」には次の記載がある(抜粋)。

「昭和四年三月五日。三女宵子の長女恭子生後八十日にして夭折。其初七日。

痛切な思いがにじみ出ている。ちょうど雛祭りのころであるから、その調度を前にしての哀しみは想像にあまりある。

・・・(省略)・・・

それはともかくとして、虚子のすごさは掲句のような哀憐の句の翌週には、このような客観写生の到達点たる句を作ること。その感情の量の変幻自在のすごさ。
 『ろく』の時の冷徹な虚子、掲句の情感あふれる虚子、この句の客観写生の虚子、はたして同一人物の感情なのか、まことに不可解なのである。」

  

虚子が「雛より小さき嫁を貰ひけり」を詠んだ背景はわからないが、深読みすれば、生まれれる前の誰かを「許嫁」として早々と決めたことを詠んだ俳句かも知れない。

  

上記のように、虚子の俳句にかぎらず、深みがある俳句ほどその句が詠まれた「場」を知らなければ正しい解釈をすることができない。

それが俳句の限界であるが、誤解にしても、自分なりにあれこれ想像して深読みの解釈できるのも俳句の面白さである。

     

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2015年2月28日 (土)

俳句談義(5):戦時中の高浜虚子・文芸家としての良心

              

2月11日は「建国記念の日」であり、2月22日は高浜虚子誕生日である。

今回は戦時中における文芸家・俳人としての虚子の良心の在り方について考える。

    

(青色文字をクリックして関連の解説記事をご覧下さい。) 

俳句は好き好き、人も好き好き」である。

俳句第二芸術と言った桑原武夫昭和五十四年四月号の『俳句』(角川書店)において、「虚子についての断片二つ」という記事に次のとおり述べている。   

「アーティストなどという感じではない。ただ好悪を越えて無視できない客観物として実に大きい。菊池寛は大事業家だが、虚子の前では小さく見えるのではないか。岸信介を連想した方がまだしも近いかも知れない。この政治家は好きな点は一つもないが」

   

桑原武夫の批評はともかくとして、高浜虚子は深慮遠謀ホトトギス俳句王国を確立したという点で「俳界における徳川家康だった」という気がする。

      

ドナルド・キーンさんは高浜虚子の戦時下の俳句について、日本文学』において次のように述べている(抜粋「mmpoloの日記」参照)

「虚子の保守性は一部の俳人を遠ざけたが、同時にまた多数の俳人を『ホトトギス』派に引き寄せた。こうして、『ホトトギス』は全国に広まり、俳句は20世紀の日本の生活と文学におけるさまざまな変化にもかかわらず、生きのびることができたのである。

・・・(省略)・・・

戦時中の虚子の作品は、当時の他の文学の病的興奮とは対照的に落ち着いた、超越したものだった。

              

虚子俳句問答(下)実践編」(稲畑汀子監修・角川書店発行)を見ると、「戦時下の俳句」という章に読者の質問と虚子の回答の記載があるが、戦時中の虚子の俳句に対する考え方や戦争に対する姿勢の一端がわかる。次にその幾つかを抜粋して記載させて頂く。

      

(質問)

現下の如き非常時局下に暢気(のんき)に俳句でもあるまいと・・・(省略)・・・悩んでいる・・・(省略)・・・ご教示願いとう存じます。(奈良 吉本皖哉 .2 

回答

俳句は他の職業に従事している人から見ると、慰楽の為に作るとも考えられるのでありまして、御説のような感じの起こるというのも、ご尤も(もっとも)でありますが、・・・(省略)・・・画家が画を描き、文章家が文を属し或は俳優が演技するのと一般、少しも恥ずるところはないのであります。・・・(省略)・・・現に戦地にある人々も、干戈(かんか)の中で俳句を作って、送って来ておるではありませんか。

   

(質問)

ホトトギスの雑詠に従軍俳句が相当たくさんある様になりました。戦争という特殊な境地をうとうたものは、所謂(いわゆる)戦争文学として雑詠より分離して別に纏め(まとめ)られたらと思いますが、如何でしょうか? (大阪 中村秋南 昭.9 

回答

戦争文学として、これを特別に取り扱うことは親切なようであって、返って不親切になる結果を恐れるのであります。雑詠に載録する位の句でなければ、戦争俳句として取り扱うことも如何かと、考える次第であります。

    

(質問)

文芸報国の一端として今回の事変発生以来、ホトトギスに戦地より投句したる戦争俳句、内地よりの事変に因む銃後俳句のみを蒐集(しゅうしゅう)し、これを上梓(じょうし)しては如何。好個の記念になると思う。(大阪 行森梅翆 昭.9  

回答

上梓するのは、事変が落着して後の方がよかろうと思います。

     

(質問)

最近の新聞に()りますと、虚子先生を会長に俳句作家協会が生まれます由、俳壇での新体制についてご指導に預かる私どもの句作上について、何か心構えとでもいう事はございませんのでしょうか。(大分県 三村狂花 昭.16.2  

回答

重大な時局下にあるということを認識した上で、(ただ)佳句を志して従前通りのご態度でご句作になれば結構だと思います。

      

また、「添削」の省の「誇張せず自然に」という項では戦時下の俳句について次のような質疑応答がある。

   

(質問)

「兵送る初凪や埠頭旗の波」「兵送る初凪埠頭や旗の波

何れが句として調っておりますか。・・・(省略)・・・(沖縄 大見謝雅春 昭.13.3

回答

こういう場合は「旗の波」は割愛してしまって、「初凪の波止場に兵を送りけり」とでもするより他に仕方がないでしょう。少し平凡ではありますけれども、それに旗の波を加えたところで大して斬新な句になったというでもありません。(むし)ろ、格調のととのった方がよろしいと思います。

         

チュヌの主人のコメント

この質問・回答の掲載された前年昭和12年には軍歌「露営の歌」が大ヒットしたそうである。

この歌の歌詞には「進軍ラッパ聞くたびに瞼(まぶた)に浮かぶ『旗の波』(1番)」という文句があり、

「馬のたてがみなでながら明日の命を誰か知る(2番)」

「死んで還れと励まされ覚めて睨(にら)むは敵の空(3番)」

「笑って死んだ戦友が天皇陛下万歳と残した声が忘らりょか(4番)」

「東洋平和のためならばなんの命が惜しかろう(5番)」

など、戦争を謳歌・賛美して戦意を高揚させ若者を駆り立て死に追いやった文句が並んでいる。

虚子はこの軍歌を連想させる「旗の波」を俳句に詠むことを良しとせず、「初凪の波止場に兵を送りけり」と、「出征して行く若者のことを思いやりながら送り出すしみじみとした俳句」にすることを教えたのである。

「初凪」と「送りけり」が呼応して出征兵士の無事を祈る気持ちが感じられ、戦意高揚を謳う原句とは全く正反対のニュアンスがある。

八紘一宇」「東洋平和のため」「大東亜共栄圏のため」にとその理想的な目的を純粋に信じてその実現に命をささげた若者も多くいただろう。

その意図に反し戦争に伴う非道な行為もあったことは全く残念なことである。筆舌に尽くし難い戦争の悲惨・犠牲・被害を思うと黙しているわけにはいかない。    

現在もテロとの戦いウクライナ停戦問題など国際情勢は常に流動的であり、有事の備えをし、且つ、平和主義を徹底する基本的な政策が必須である。安倍首相は「積極的平和主義」に基ずく外交を推進しようとしているが、「真に世界平和の実現に寄与するにはどうすればよいのか」集団的自衛権の行使はどうあるべきか」与党野党が時間をかけて議論して国民の理解・合意を得るようにしてほしい。国民の理解を得ずして外国の理解を得ることは期待できない。

日中戦争太平洋戦争の犠牲となった人々のことを思い、墨塗り教科書で勉強をした戦中・戦後の体験者として戦争を知らない世代に政治に関心を持ってほしいとの思いから、つい「俳句談義」が「政治談議」のようになったが、本論に戻ろう。

               

坊城俊樹空飛ぶ俳句教室」の「虚子と戦争」に次のような記述がある。

  

「終戦直後、新聞記者に俳句はどのように変わったかと問われた虚子は、
『俳句はこの戦争に何の影響も受けませんでした』と答えたといいます。そのときにその記者があわれむような目をしたと言っては、虚子は笑っていました。」

    

「虚子俳句問答」における読者と虚子との質疑応答を読むと新聞記者の質問に対する上記の虚子の答えは納得できる。

虚子は自分が日本文学報国会俳句部会長として戦争を賛美することなく客観写生花鳥諷詠の文芸を堅持し、時代の流れに掉さすことも流されることもなく、文芸家・俳人としての良心貫いたのだと思う。 

            

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俳句談義(7):高浜虚子の句「爛々と昼の星」の「星」とは何か?(続編)

                   

爛々と昼の星見え(きのこ生え」について、坊城俊樹さんは「虚子の宇宙の片鱗」とか「虚子の遊び」などと言っているが(俳句談義(6)」参照)、この句には「謎解き」のような面白さがある

          

稲畑汀子さんは「虚子百句において次のように言っている(抜粋)。

「この句ほど不思議な力で読む人を惹きつけながら、解釈を施そうとすると困難を極める句も珍しいだろう。

・・・(省略)・・・

虚子が3年余りに及び滞在した小諸を引き揚げる直前のこの日、長野の俳人達が大挙して山ほどの松茸を持参して別れを言いにやってきたのである。句会に出席していた村松紅花の証言によれば、句会の席上、長野の俳人の一人が、『深い井戸を覗いた時、昼であるのに底に溜まっている水に星が映り、途中の石積みの石の間に菌が生えていた』という体験を話したという(注:村松紅花は村松友次の俳号)。

・・・(省略)・・・

虚子は一俳人の話に感興を動かされて、いや感興などという生易しいものではなく、インスピレーションを得て一気に頭の中で壮大な宇宙を作り上げたのではないだろうか。

・・・(省略)・・・

この句は信濃(しなの)の国に対する虚子の万感(ばんかん)を込めた別れの歌であり、最高の信濃の国の()め歌なのである。(以下省略)      

           

掲句についての山本健吉の「定本 現代俳句」における句評を「俳句談義(6)」で抜粋引用したが、その句評の最後に次の記述がある。 

「・・・(省略)・・・連句の連用形止めは、たいてい『見えて』『生えて』というふうに、『て』止めである。この句の感じは、やはり朔太郎の用法に近い効果を見せ、何か不気味な、感覚的な戦慄を生み出している。老境の虚子の、感覚的な若さを感じさせる。」

            

以上のように、この句に対する解釈は評者によって様々であり、「謎解き」のような面白さがある。

    

    

写生句であれば、「切れ」の効果を出すために「終止形」にするのが普通であるが、「爛々と昼の星見え菌生え」と、「連用形止め」である。この句は写生句ではない。「昼間は見えない星も夜には爛々とするという宇宙の現象」を捉え、「森羅万象」を抽象的・主観的な比喩で表現しているのではないか?

虚子花鳥諷詠を広く捉え、このように俳句を比喩的に作ることも花鳥諷詠であると範を垂れているのではないか?

        

この句には、「長野俳人別れの為に大挙(たいきょ)し来る。小諸山廬(こもろさんろ)」の詞書(ことばがき)がある。インターネットで長野県出身の俳人を調べたところ、河合曾良小林一茶小澤實矢島渚男など15名がリストされていた。                

       

星は曾良や一茶など鬼籍の俳人を指し、「(きのこ)」は小澤實矢島渚男など現存の俳人を指していると解釈してもよいのではないか?

すなわち、「長野の俳人の活躍を讃え、花鳥諷詠の俳句が将来も隆盛することを信じ・喜んでいる句である」と解釈してはどうか?

虚子は宇宙のどこかで、「ほう、そんな解釈もできますか。」と、ニッコリしているのではないか?

遊び心のついでに、この句の後に連句として「花鳥諷詠ますます盛ん」と付け加えたら、虚子は何というだろうか?

星になった桑原武夫碧梧桐秋櫻子などは何と思うだろうか?

先達と彼岸で俳句談義が出来ると面白いだろうが、元気な限り「露の世」の俳句談義に興じたい。

      

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俳句談義(6):高浜虚子の句「爛々と昼の星見え菌生え」の「星」や「菌」とは何か?

       

高浜虚子小諸山廬にて詠んだ掲句について山本健吉は「定本 現代俳句」において次のように述べている(抜粋)。

   

昭和221014日作。小諸を引き上げる前の作品で、「長野俳人別れの為に大挙し来る」と注記がある。

「昼の星」とは太白星(火星)である。山の秋気が澄んで、まだ日の高いうちから、爛々と大きく、赤く燃えるような色を放って輝いている。地には「菌」がにょっこりと頭をもたげている。・・・(省略)・・・空と大地と、二つの異様な色彩のものを対置し、抽象的な装飾画のように、ただその二つのものが並べ置かれているだけである。(以下省略)

(注:上記の太白星の「火星」は「金星」の誤りである。)

(青色文字をクリック or タップしてリンク記事をご覧下さい。)

             

坊城俊樹氏の「高浜虚子の100句を読むには次の句評がある。

    

・・・(省略)・・・昭和二十二年四月一日には愛子の死が訪れ、老人虚子はそろそろ晩年の節目となる俳句にさしかかっていたと思われる。
 しかし、この掲句なのである。これが、七十歳を過ぎた当時の老人の句であるとは誰も思わない。ある意味で虚子の代表句であるが、伝統派の俳人たちはこの句の謎を追うことを嫌う。句意もさんざん人たちが議論を繰り返してきた。昼の星とは宵の金星であるとか、井戸に映った金星とか、妄想的に現出した星など、さまざま。
 筆者としては、これは虚子の遊びだと思っている。肉眼では金星が暁以外で見えるはずはないとか、金星は小諸と限定せずに鎌倉の夕刻の回想とか諸説の理由ももっともであるが、なんとなく庭の菌を見ていたらそんな気がしたのであろう。昼の星を太陽としても天文学的には間違いではない。しかし、それはそれとしても太陽にもそんな気がしたのである。
 いわば、虚子としての集大成の写実の次に見えてくる、虚子の宇宙の片鱗なのである。」

             

上記のように、山本健吉は「抽象的な装飾画のように、ただその二つのものが並べ置かれているだけである」と言い、坊城俊樹氏は「虚子の宇宙の片鱗」とか「虚子の遊びだと思っている」と言っている。

     

太陽(恒星)は星の一つである。

覗いた井戸か池に太陽が映って輝いており、キノコがどこかに生えているのを見て作った句かも知れない。

しかし、唯それだけなら虚子は何故に「長野俳人別れの為に大挙し来る」という注記を付けたのだろうか?

        

虚子は「深は新なり」といっている。高浜虚子記念館HP虚子の思想参照) 

  

また、「新・俳人名言集復本一郎著 春秋社発行)によると、虚子は「客観描写を透して主観が浸透して出て来る。」と言っている。

    

だから、具体的なものを抽象的に表現している俳句の場合は何かを比喩的に詠んでいる可能性がある。「長野俳人別れの為に大挙し来る」という注記を考慮すると比喩の可能性が高い。

もし、「長野の俳人たちとのこの別れは今生の別れとなるかもしれない」と虚子が考えていたとすれば、辞世の句として作ったのかも知れない。       

      

芭蕉は「平生即ち辞世なり。」といひ、

また、

「きのふの発句はけふの辞世、けふの発句はあすの辞世、わが生涯いひ捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし。」

と言っている。(「新・俳人名言集」)

虚子もそういう気持ちで俳句を作っていただろう。

そうだとすれば、虚子は、「星」を死後の自分に例え、後に残る俳人や次々と新たに生まれてくる俳人を(きのこ)」に例えていると解釈できるのではないか?

               

坊城俊樹氏は「虚子の遊びだと思っている」と言っているが、虚子は読者が句の解釈をどのようにするのか、誤解があればそれはそれとして楽しむ余裕を持っていたようである。

虚子は、「虚子一人銀河と共に西へ行く」という句も作っている。虚子の俳句には謎をかけられているような興味が湧く。

選は創作なり」という虚子の言葉にあやかって、「解釈も創作なり」と誤解を恐れず私見を述べているが、星になった虚子は「ほう、そういう解釈もできますか。」と、面白がってくれているかもしれない。 

「俳句は存問の詩である」と虚子は言っている。次回は試みに別の解釈について書きたい。     

    

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2015年2月27日 (金)

俳句談義(8):「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」《虚子の対話の相手は誰か?》



   

手作りの我が楽園や初蝶来

        (薫風士)

  

タイトルの高浜虚子の掲句について、「古典・詩歌鑑賞」というブログには、虚子が家人と対話していると解釈した記述がある。しかし、掲句について偶々見つけた下記のブログなどからすると、その様な日常的な存問の俳句であるとは思えない。

  

(1)第3回『詩を読む会―高浜虚子を読む』レポート『高浜虚子の俳句についてのメモ』という岡田幸文氏の記事には次の記述がある(抜粋)。

(「見た瞬間に今までたまりたまって来た感興がはじめて焦点を得て句になった」)「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」(昭和21年『六百五十句』)

(初案)「初蝶来何色と問はれ黄と答ふ」(昭和21年『小諸百句』)

          

(2)「K-SOHYA POEM」には次の記事がある(抜粋)

「ホトトギス」昭和21年6月号では、「初蝶来何色と問はれ黄と答ふ」だった。それが再掲誌「玉藻」(虚子の二女星野立子の主宰誌)同年9月号までの間に「問はれ」が「問ふ」に修正された。
この修正は、まことに興味深い。虚子の句作の実際を具体的に例示してくれるからである。「問はれ」から「問ふ」に変ることによって、この句は単に実際の体験を詠んだだけの句から、もう一つ別の次元へ移ったと言える。「問はれ」て「黄と答ふ」という、ひと連なりの句では、この句は「作者」一人が詠んで、それでお終い、という、つまらない句になってしまう。それを「何色と問ふ」「黄と答ふ」としたことによって、「誰か」を見事に押し隠しているために、句に対話性が導入され、句が大きく、広くひろがった。

(詳細はここをクリックして参照下さい。

                

掲句が日常的な平凡な句ならば詠み捨てにしてもよいだろうが、虚子はこの句を上記のように推敲している。特別の存問の句として大切に考えていたのだと思う。

それではこの句における虚子の対話の相手は誰か? 

それは緒方句狂でないか?

虚子が「初蝶だよ」と話しかけ、句狂が「何色ですか?」と尋ね、それに虚子が「黄だよ」と答えたのではないか?

そう考えるのは「盲目の俳人・緒方句狂の作品と高浜虚子のメッセージ」を読んだからである。

次にその記事の内容を抜粋引用させて頂く。

    

昭和22年、句集「由布」に寄せた高浜虚子の序文に、

「両眼摘出昼夜をわかたず」という前書きがあって、

「長き夜とも短き日ともわきまえず」という句がこの句集のはじめにあるが

・・・(省略)・・・

私は九州に旅する度に、別府の埠頭に、黒い眼鏡をかけ、人に助けられて立っている句狂君を見出すのである。昨年行った時もそうであった。そうして各地の句会には必ず句狂君の顔を見た。句狂君の成績はいつも立派であった。・・・(略)・・・

昭和22106日 小諸山盧 高浜虚子 

     

この句集「由布」の(ばつ)に、句狂は次のように記している。

昭和958日、当時炭鉱で従事して居りました私は、坑内作業中ダイナマイトの事故により、遂に失明せねばならぬ運命におかれました。

・・・(省略)・・・

黙星君は私の寄稿の中から選んで、ホトトギスに投句していたとみえ、はじめてその年の12月号のホトトギスに

「長き夜を眠り通してまる三日」

というのが

「長き夜とも短き日ともわきまえず」

と虚子先生によって御添削を頂き、初入選したのでありました。

・・・(省略)・・・

若し私に俳句がありませんでしたならば、今頃どんなになっていたでありましょうか。往時を顧みますとき、総身泡を生ずるの思いがあります。私は俳句に依って更生させられたのであります。否、邪悪の淵に溺れていました私は、虚子先生や清雲先生の温かい情に救い上げられたのでありまして、今更ながら感泣せずには居られません(以下略)

  

なお、初代(句狂の妹)の「句狂の追憶」の項の最後に次の記述がある(抜粋)。

・・・(省略)・・・

以上が闘病句で高浜虚子先生より次の弔句をいただきました。句狂もさぞかし泉下で感泣したことと存じます。

「目を奪い命を奪う諾と鷲  虚子」

(以下省略)(詳細はここをクリックしてご覧下さい。)

           

上記の虚子の弔句に関連する記事として「徒然詩」から次のとおり抜粋させて頂く。

    

緒方句狂(くきょう)。明治36年(1903)~昭和23年(1948)。本名稔。田川郡赤池町に生まれました。
 父の営む古物商を手伝いながら、明治鉱業赤池炭鉱の坑内夫として働きました。昭和9年に、ダイナマイト事故で失明してしまいます。失明のため、悩んでいた頃、俳句に出会います。河野静雲、高浜虚子に師事し、めきめき上達します。昭和20年に、「ホトトギス」同人となります。
「闘病の我をはげます虫時雨」の句を残して、ガンのため、45年の生涯を終えました。

・・・(省略)・・・

「目を奪い命を奪う諾と鷲」(虚子)
高浜虚子が、緒方句狂について詠んだ句です。とても難解な句です。鷲は句狂のことでしょう。諾には「諾う(うべなう)」-受け入れるーという意味があります。つまり、句狂が、失明を運命として受け入れたことを詠んだのだと思います。(以下、省略)
(詳細はここをクリックしてご覧下さい。)

                    

「俳句への道」に於いて、虚子は次のように述べている(抜粋)

私はかつて極楽の文学と地獄の文学という事を言って、文学にこの二種類があるがいずれも存立の価値がある、俳句は花鳥諷詠の文学であるから勢い極楽の文学になるという事を言った。如何(いか)窮乏の生活に居ても、如何に病苦に悩んでいても、一たび心を花鳥風月に寄する事によってその生活苦を忘れ病苦を忘れ、たとい一瞬時といえども極楽の境に心を置く事が出来る。俳句は極楽の文芸であるという所以(ゆえん)である。(『玉藻』昭和28年1月号)

               

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2015年2月17日 (火)

俳句談義(4): 高浜虚子の句『大寒の埃の如く人死ぬる』とは、「平和」を考える

                  

(2025.1.23 更新)

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冒頭の写真は、米国トランプ大統領新政権スタートを報じるNHK-TV ニュース画面の一部分ですが、独善的政権が暴走しないことを祈るばかりです。

 

2022年3月26日にウクライナ紛争について、「已むに已まれぬ思い」を俳句に詠み、紛争解決案を提言しましたが、未だに戦争が続いてるのは悲しいことです。

 

青色文字をクリック(タップ)して、「血に染むなドニエプルてふ春の川」や「春一番この発言はおぞましき」に書いた思いをシェアして頂ければ望外の喜びです。

      

昭和16年(1941年)1月に掲句を作ったとき、虚子は何を意識していたのだろうか?

 

「平和を願う祈りが世界の人々に通じ、地球上に愚かな戦争がなくなる日がいつかは来るのではないか」と、一縷の望みを捨てずに、このブログを書いている。

   

昭和12年には支那事変(日中戦争 1937年~1945年)が始まっており、既に日中双方に多数の死者が出ていただろう。

  

インターネットを検索すると、伊予歴史文化探訪「よもだ堂日記」に「秋山真之 元気のない正月」というタイトルで、

「明治29年(1896)1月初め、秋山真之が子規のもとを訪問。秋山が訪れたのは3年ぶりで半日閑談したのだが、このときの秋山はあまり元気がなかったと子規は述べている。」

という記事があった。

   

その前年、明治28年(1895年)4月17日には日清講和条約(下関条約)が締結され、数日後の4月23日に三国干渉が起こっている。

秋山とは司馬遼太郎原作のNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の主人公の一人である秋山真之のことである。

 

高浜虚子は日露戦争当時の明治38年(1905年)7月1日発行「ホトトギス」に「正岡子規と秋山参謀」という次のような記事を掲載している(抜粋)。 

  

「子規居士と茶談中、同郷の人物評になると、秋山真之君に及ばぬことは無かった。秋山君は子規君と同年か若くても一歳位の差で、同郷同窓の友(松山では固より、出京後でも共に一ツ橋の大学予備門に学び、後ち秋山君は海軍兵学校の方に転じたのである)として殊に親しかった。

・・・(省略)・・・

その後は別に記憶にとどまるようなことも無く、日清戦争のすんだ時分、子規君の話に、秋山がこないだ来たが、威海衛攻撃の時幾人かの決死隊を組織して防材を乗り踰(こ)えてどうとかする事になって居たが、ある事情のため決行が出来なかった、残念をしたと話して居たと、言われた。

・・・(以下省略)」

              

虚子は掲句を作った前年の昭和15年(1940年)3月には「大寒や見舞に行けば死んでをり」という句を作っている。この句は「死んでをり」という具体的な表現であるから誰か身近な人の死を詠んだものだろう。

しかし、掲句では「人死ぬる」と一般的な表現である。

 

上記のホトトギスの記事にある「日清戦争のすんだ時分、子規君の話に、秋山がこないだ来たが、・・・(省略)・・」という記載からすると、虚子は秋山と子規のこと、日清戦争(1894年7月~1895年3月)や日露戦争(1904年2月~1905年9月)のことに思いを馳せ、現に行われている日中戦争(1937年~1945年)のことを念頭において掲句を作ったに違いない。

   

当時の世界情勢は列強が帝国主義政策を推進しており、日本も遅ればせながら列強に負けじと帝国主義の道を突き進んでいた。

 

昭和11年(1936年)には二二六事件が起こっている。

昭和15年には戦時体制としての内閣総理大臣を総裁とする大政翼賛会が発足し、津田事件が起こるなど、反戦的な発言は許されない時代になっている。

 

虚子は現実の生活において通俗的に「人の命」を「塵」や「埃」と同一視していたとは考えられない。「埃の如く死ぬる」という比喩は、「人の死」を軽んじているのではないだろう。

  

おそらく、「戦争における人の死は宇宙から見ると大寒の埃のようなものである」と憂い、戦争による多数の死を空しいと思っていたのではないか? 

            

参考までに掲句に関してインターネットで検索したブログ(抜粋)を下記に挙げるが、対照的な解釈をしている。

 

(1)「遼東の豕」(作者名不詳)  

「ワシャは俳句は素人なのでよく解からないが、虚子の死生観が感じられる一句だと思う。『大寒の埃』とは、寒い朝、書斎の障子越しに射す光に浮かんだ微小な埃のことだ。小さなものと大いなる寒さの対比がおもしろい。虚子はその埃が室内の暖気の対流をうけてきらきらと舞っているのを見た。時間の経過とともに埃は墜ちていき、やがて畳の目につかまって動かなくなる。それを死と観たか。人の生き死にも大いなる自然から見れば、埃の死と大差ないのだよ、だから嘆かないでということなのだろう。

     

(2)「六四三の俳諧覚書」

「『大寒の埃の如く人死ぬる』 おそらくは親しかった人の死をホコリにたとえる、この非情さはどうでしょう。そんなふうに作者を責めたくなります。ところが、真相は違いました。同じ句会で詠まれた『大寒や見舞に行けば死んでをり』の句とともに、連衆の笑いを狙った虚構句らしい。作者の年齢にも目を向けてください。老境の呟きです。昭和十五年、六十六歳。」

    

(3)「六四三の俳諧覚書」子規の革新・虚子の伝統(七) 花鳥諷詠

「『大寒の埃の如く人死ぬる』 昭和十五年冬。この非情さはどうなのか。実は、同じ句会の席で詠まれた『大寒や見舞に行けば死んでをり』とともに、連衆の笑いを狙った滑稽句でした。

     

上記のように国光六四三氏が虚子のこの句を「滑稽句」と評した根拠を知りたいが、昭和15年当時は「反戦句」を作ることは許されないのだから、虚子は「滑稽句」として披露したのか、あるいは「滑稽句」という解釈をそれで良しとして受け入れたのではなかろうか?

         

      

(4)「ときがめ書房」のブログ「大寒・高浜虚子」(作者名不詳)

「死 秀句350選」(倉田紘文著)の「『如是』という言葉がある。まったくさからう心のない、在りのままの姿を示す語である。・・・(省略)・・・」を引用している。   

    

夏目漱石が虚子という人物をどのように見ていたかを知るのに参考になる記事(「高浜虚子著『鶏頭』序」)があったので、次のとおり抜粋させて頂く。

       

「虚子の作物を一括して、(これ)は何派に属するものだと在来ありふれた範囲内に押し込めるのは余の好まぬ所である。是は必ずしも虚子の作物が多趣多様で到底(とうてい)概括し得ぬからと云う意味ではない。又は虚子が空前の大才で在来西洋人の用を足して来た分類語では、其の作物に冠する資格がないと云う意味でもない。虚子の作物を読むにつけて、余は不図(ふと)こんな考えが浮・・・(省略)・・・

余は虚子の小説を評して余裕があると云った。虚子の小説に余裕があるのは()たして前条の如く禅家の悟を開いた為かどうだか分らない。(ただ)世間ではよく俳味禅味と並べて云う様である。虚子は俳句に於て長い間苦心した男である。従がって所謂(いわゆる)俳味なるものが流露して小説の上にあらわれたのが一見禅味から来た余裕と一致して、こんな余裕を生じたのかも知れない。虚子の小説を評するに(あた)っては(これ)(だけ)の事を述べる必要があると思う。
 尤も(もっとも)虚子もよく移る人である。現に集中でも秋風なんと云うのは大分風が違って居る。それでも比較的痛切な題目に対する虚子の叙述的態度は依然として余裕がある様である。虚子は畢竟(ひっきょう)余裕のある人かも知れない。明治四十年十一月」

         

現在も世界のどこかで宗教や人種の違い、利害の対立などから生ずる愚かな戦争が行われている。情けないことである。

 

「正義」や「大義」、善悪などの価値観は時代や立場によって異なる。

正義や大義の名のもとに愚かな戦争をすることがあってはならない。

  

宗教と科学の融合」でも書いたが、科学・文化、社会制度などが未発達の時代の預言者の唱えた宗教(一神教など)にいつまでも囚われず、既存の宗教の欠点を補完し、良い点を融合して現在の宇宙時代にふさわしい宗教的考えが確立されることを切望している。

  

世界の宗教指導者や政治家が寛容・和の精神を実践することによって民衆を指導してもらいたいものである。

   

凡人である私は、「大寒や花鳥諷詠南無阿弥陀」と平和憲法下における「平和国家日本の悠久」をひたすら祈りながら、ささやかなブログを書いているほかに術がないが、「平和を願う祈りが世界の人々に通じ、地球上に愚かな戦争がなくなる日がいつかは来るのではないか」と、一縷の望みを捨てずにいる。

  

「何が平和か」ということは大きなテーマであり、短歌や俳句・川柳などで一口に言えるものではないが、このブログが平和について改めて考えるきっかけになれば幸いである。

  

最後に、薫風士の俳句と川柳(即興句)をご笑覧下さい。    

   

ブログにて花鳥諷詠冬ごもり

待春や妻は吟行我ブログ

「和」を唱へブログを書きつ春を待つ

ブログ書き平和を祈り春を待つ

子と孫に託す世界の平和かな

      

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2015年2月 9日 (月)

俳句仲間のエッセイ:「俳句と川柳」

         

今回は俳句仲間の河野輝雄氏のエッセイ「俳句と川柳」を掲載させて頂きます。

河野氏は俳句のみならず水彩画も趣味として楽しんでおられ、西宮市生涯学習大学「宮水学園」の「画楽彩グループ展」に猫の画風景画などを出品されます。

このグループ展はJR西宮駅南側にある「フレンテ」(4階)で平成27年2月18日~23日に開催の予定なので見に行きたいと思っています。

    

(青色文字をクリックして関連の解説記事をご覧になれます。)       

     

   俳 句 と 川 柳 

       2015.2.7 河野輝雄  

最近の某句会で「言訳は 俯き加減 寒の月」という句を出したが、誰にも取ってもらえず無得点句となった。この句には少し思い入れがあったので、講評の場で以下のように言訳をさせてもらった。

すなわち、この句は古川柳集「俳諧 武玉川」に出てくる私の好きな、そして有名な古川柳俯向は 言い訳よりも 美しき」 (下記書物の索引では、「俯向 言い訳よりも 美しき」)をふまえて作ったものであることを述べた。

この言訳に対して句会の講師格の女性の方から、その川柳はなかなか色っぽいねと言われ、川柳については、よく理解していただいたようだった。

この川柳は神田忙人著「『武玉川』を楽しむ」(朝日選書337)のP.302に記載があり、評釈として「若い女性のように思われる。小言を言われたが弁解もせず、ただうつむいているのである。作者はそれを不貞腐れたとか返答につまったとかは見ずに、おとなしい忍従とみて感心しているのだ。弁解は十分に出来るのだがそれをせず、うつむいている様子に同情している。」 とある。

その後、少し考えて上記の句会提出句を「言訳に 俯く少女 寒の月」のように修正してみた。

     

俳句と川柳の違いに関しては、まず川柳には季語がなくてもいいことや、俳句が主として自然を詠むのに対して、川柳はどちらかというと人情を少し滑稽味をもって詠む、という解釈が一般的?であるが、復本一郎著「俳句実践講義」(岩波現代文庫/学術265)の中で俳句は連歌の発句から出てきた文芸なので「切字」が季語以上に大事であると解説している。

その実例として以下の句を示し俳句と川柳の違いを述べている。

①   買いに(ゆき)て絵の気に入らぬ団扇(うちは)かな

②   客が来てそれから急に買う団扇

③   桟橋に別れを(をし)む夫婦かな

④   油画(あぶらゑ)の初手は林檎に取りかかり

       

①~④でどれが俳句でどれが川柳か? 

①、②の団扇は夏の季語である。③には季語がなく ④の林檎は秋の季語。

なんと①と③が正岡子規の作で俳句。②と④は子規と同時代人の川柳作家 阪井()()()の作で川柳である。

①と③の句における切字(きれじ)「かな」がポイントで、詠嘆、感動を表現する終助詞「かな」が一句を完結させる役割を担っている。俳句性を保証するのは、季語以上に切字であると述べている。

季語の有無が俳句と川柳の基本的な相違と考えていたがどうも違うようである。勉強不足であり、もう少し勉強してみる必要がありそうだ。

                     

(チュヌの主人のコメント)

現代俳句には川柳であると言った方がよいと思われるものがある。そのような俳句は一見すると面白そうで初心者が楽しむのによいだろうが、深みが無くて物足りない。高浜虚子の俳句は一見すると何でもないようであったり、何を言っているのだろうと興味が湧くものがある。その解釈をあれこれ考えていると飽きが来ない。虚子は「俳句の選は創作なり」と言っているが、「俳句の解釈も創作である」と思っている。虚子の辞世句の新解釈など「チュヌの便り」に書いている。

お暇があれば「俳句談義」などをご覧下さい。

          

2015年2月 7日 (土)

後藤健二さんの死を無にするな! 政治家やマスコミが言っていないことを言う。

         

理不尽な誘拐や殺人に対する怒りを抑えることは出来ない。

だが、その仕返しをすることは際限のない憎しみと殺戮の繰り返しの応酬になる。

憎しみの応酬は善良な市民をテロの被害者にする危険性を増大する。

そればかりでなく、予期せぬ戦争を引き起こす恐れさえある。

テロに屈してはならない。

各国が協力してテロ対策に万全を期すことが必要であることは言うまでもない。

しかし、それは対症療法に過ぎない。

     

肝心なことは根本的なテロ対策・解決方法を講ずることである。

後藤さんたちテロの被害者の死を無にしないためにはどうすればよいだろうか?

言論の自由や表現の自由は権利として尊重されなければならない。

しかし、誰にしろ、他人の心を傷つける権利はない。

    

他人の信じている宗教を風刺し、侮辱することが当然の権利とは思えない。

  

風刺画を書いたり風刺文を書いたりする者にとっては侮辱したつもりが無くても、風刺の対象にされたものは侮辱されたと思うことはあるであろう。

  

伝統のある宗教には善良な信者がいる。そういう善良な人々の心を傷つけることをすれば、過激派のみならず善良な人々の怒りもかうことになり、理不尽な過激派を勇気づける結果になるだろう。

    

日本では川柳や風刺画などで政治家を風刺をすることがある。

  

しかし、特定の宗教を風刺する川柳などは受け入れられないだろう。

  

芸術・文化の盛んなフランスには伝統的に風刺が尊重されている。

  

だが、特定の宗教を対象に風刺することは賢明な文化的行為だとは思えない。

  

そのような風刺を自粛することはテロに屈することではなく、人間としての良識の問題である。

  

国の如何を問わず、文化国家、文化人としての良識を発揮して貰いたいものである。

  

テロに関してやるべきことは「風刺」ではなく、「宗教とは何か」を真摯に考え、議論することだろう。

ここをクリック(タップ)して「宗教と科学の対立と融合」をご覧下さい。

     

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2015年1月25日 (日)

俳句談義(1)虚子辞世句「春の山」の新解釈

     

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伊藤柏翠著「虚子先生の思い出」(写真参照)によると、高浜虚子は宗演禅師のもとで参禅弁道をしたとのことですから、虚子の俳句「春の山」に於ける「空しかり」についての薫風士の新解釈を一概に的外れとは言えないでしょう。

  

春の山(かばね)を埋めて空しかり

      高浜虚子

  

掲句の「空しかり」は一般に「むなしかり」と読まれますが、虚子は「空然り(くうしかり)」ということを念頭においてこの句を詠んだのではないでしょうか?

  

大寒の埃の如く人死ぬる

  

「大寒の」の句のように、「戦争による死」には「むなしかり」というのが相応しいでしょうが、「平和裏の大往生」には「くうしかり」を当て嵌めたいと思います。

        

偶々数日前に、「生きて死ぬ智慧」など「般若心経」に関する本を読んでいたので、ふと次のように思い付きました。

虚子は日頃から「般若心経」の「色即是空」を潜在意識にして「花鳥諷詠」を句にしていたに違いない。掲句の「空しかり」は「むなしかり」ではなく、「くうしかり(空然り)」と読むべきではないか?「屍」とは虚子の「屍」のことではないか?

  

虚子の句に「春惜しむ輪廻の月日窓にあり」があります。

「『凡てのものの亡びて行く姿を見よう』私はそんな事を考へてぢっと我慢して其子供の死を待受けてゐたのである」と虚子は四女の死に際して記述していますが、「色即是空」を念頭においていたのではないでしょうか?

          

坊城俊樹氏は「独り句の推敲をして遅き日を」を虚子の辞世の句としてもよいとしています(「高浜虚子の100句を読む」参照)

この淡々とした句は句仏17回忌(3月31日)に詠んだものですが、虚子の句には、「短夜や夢も現も同じこと」や「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」などがあります。

辞世の句がどれかはともかく、虚子の命日釈迦の生誕日とされる「4月8日」に当たることも不思議な縁を感じます。

             

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2015年1月24日 (土)

ロシアの旅(写真・俳句) Trip to Russia (Pictures & Haiku)

        

2024.7.29

ウクライナ紛争について「已むに已まれぬ思い」を俳句に詠んで書いた記事を読んで頂きたく、「北京2022 のパラリンピック閉会式を見ながら2022年3月13日に次のとおり追加記事を書きました。

プーチン大統領が母国を大切に思うのと同じように、世界の人々はそれぞれの母国を大切に思っていることを理解して、プーチン大統領が21世紀の大国の政治指導者として賢明な決断をしてくれ、元気な間にまたロシア観光が出来ることを祈っています。

青色文字をクリック(タップ)して、「梅東風や届け世界にこの思ひ」や「血に染むなドニエプルてふ春の川をご覧下さい。

       

2010年9月にロシア(モスクワとサンクトペテルブルグ)を観光した時のチュヌの主人の俳句と写真を披露します。

青色の文字をクリックすると解説や写真・動画がご覧になれます。

モスクワ見物に因んで、赤の広場を詠んだチュヌのお母さんの俳句がHIAの俳句大会でジャパンタイムズ社賞を貰いました  

    

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秋冷の赤の広場や鳩一羽

a dove

on the Red Square

in the cool autumn morning

   

秋澄むや赤の広場の時の鐘

a bell chiming the time_

clear autumn

on the Red Square

       

平和かな秋夕焼けのクレムリン

What a peace!

the bright evening sky_

the Kremlin Palace in autumn

  

   

大帝の夢噴き上げる秋の水  

the autumn fountain

blowing up

the dreams of Peter the Great

        

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ピョートルの大カスケード水の秋

the cascades

of autumnal water_

Peter the Great

 

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鴨憩ふエカテリーナ愛でし池   

the pond and wild ducks_

as loved by

Catherine the Great  

    

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大帝の凛々し騎馬像秋高し 

the gallant equestrian statute

Peter the Great_

high autumn

       

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秋水を湛へ対称宮廷園

the autumnal water

the garden_

all in symmetry           

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要塞てふ修道院の秋深む

once a fortress

the cathedral_

the deepening autumn

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秋雨や砦でありし修道院

raining in the autumn_

the cathedral

once a fortress

            

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2015年1月18日 (日)

虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」の棒とは何か?

    

(2025.1.18 更新

去年今年宇宙は廻りめぐるかな

足らざるを補ひ合ひて去年今年

       (薫風士)

  

虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」の棒とは何か?

「棒」は「虚子の信念」などの比喩でしょう。

     (薫風士の新解釈)

  

著名な俳人の著書の関連部分のページの写真を掲載して、従来の解釈・通説を下記のとおり紹介させて頂きます。

  

(写真1&2) 夏井いつき著「俳句鑑賞の授業」(P178~179)

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夏井いつきさんは、虚子のこの俳句を高く評価して、「『貫く棒の如きもの』という抽象的な比喩だけで、一瞬と永遠を合わせ持つ『去年今年』という季語の本質を見事に表現している」と述べていますが、夏井先生の「棒」を「一瞬と永遠の比喩」と解釈する考え方は腑に落ちません

   

従来、この俳句の「去年今年」を「貫く棒の如きもの」の主語と解釈して、俳人や評論家などが様々な解説をしていますが、何れの解説も決め手になっていないと思います。

  

虚子は、1981年(昭和56年)7月17日に亡くなった水原秋桜子への追悼句「たとふれば独楽のはぢける如くなり」に於いて主語(秋櫻子と虚子との関係の在り様)を省略しているように、この「去年今年」の句においても、棒の主体を省略して去年今年を副詞として用いていると解釈すると、すっきり説明が出来ます。

    

虚子が「去年今年」を主語として俳句を作っていたとすれば、「独楽」の俳句と同じように助動詞「なり」を用いて、「去年今年貫く棒の如きなり」と表現していた筈でしょう?

  

助動詞「なり」を使わず、「もの」と表現したことは、「去年今年」が主語でないことの証だと思いませんか?

  

「去年今年」を「虚子の信念」との取合せである、すなわち、「棒」を「虚子の信念」と解釈する考え方は、まだ一般的に通説として普及していませんが、反論出来ない限り正しい解釈と言えると思います。

    

(写真3) 
_101042伊藤柏翠著「虚子先生の思い出」(P96-97)

  

  

高浜虚子は宗演禅師のもとで参禅弁道をしたとのことですが、「明け易や花鳥諷詠南無阿弥陀」と詠んでいますから、薫風士の新解釈を一概に的外れとは言えないでしょう。

  

(写真4) 金子兜太著「酒止めようか どの本能と遊ぼうか」P140-141    

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金子兜太も、去年今年の俳句について「観念臭が強い」と言ってあまり高い評価をせず、通説通り「一物仕立て」として解釈していますが、その解釈・評価に兜太の取巻きも同意しています。

    

   

(写真5)パソコンで読んだ現代俳句協会の記事の一画面

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「去年今年」の「棒」を取合せとして、「男性器のメタファー」とも解釈できると、面白い解釈をしています。(評者横須賀洋子)

写真をタップ拡大して、記事をご覧下さい。

    

きごさい歳時記」の解説によると、「去年今年」の季語の来歴は『毛吹草』(正保2年、1645年)にあります。

  

青色の文字をタップすると関連のリンク記事をご覧になれます。) 

    

お暇があれば、2015年作成の面白い下記のオリジナル記事をお楽しみ下さい。  

  

高浜虚子の「去年今年」の俳句について、稲畑汀子さんは「虚子百句」において次のように述べている(抜粋)。   

    

「昭和25年12月20日、虚子76歳の作である。

・・・(省略)・・・ 

去年と言い今年と言って人は時間に区切りをつける。しかしそれは棒で貫かれたように断とうと思っても断つことのできないものであると、時間の本質を棒というどこにでもある具体的なものを使って端的に喝破した凄味のある句であるが、もとよりこれは観念的な理屈を言っているのではない。禅的な把握なのである。体験に裏付けられた実践的な把握なのである。

・・・(省略)・・・

_

ところで棒とはなんであろう。この棒の、ぬっとした不気味なまでの実態感は一体どうしたことであろう。もしかすると虚子にも説明出来ず、ただ「棒」としかいいようがないのかも知れない。敢えて推測すれば、それは虚子自身かも知れないと私は思う。

この句は鎌倉駅の構内にしばらく掲げられていたが、たまたまそれを見た川端康成は背骨を電流が流れたような衝撃を受けたと言っている。感動した川端の随筆によって、この句は一躍有名となった。・・・(以下省略)」

            

稲畑汀子さんは上記の如く述べているが、川端康成はこの句の「棒」をどのように解釈したのだろうか?

  

「貫く棒の如きなり」と言わず、「貫く棒の如きもの」と言っているから、「棒」は「時のながれ」というよりも「虚子の信念」の比喩であると思う。

   

「虚子俳句の痴呆性」を云々する人がいるが、この「去年今年」の句には「大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る。」という坂本龍馬の言(勝海舟に説明した西郷隆盛の評価)を当てはめたい。

  

文学に限らず、音楽や絵画など、芸術は自己実現の個性を表現するものであり、それをよく理解できるか否かは鑑賞する人の性格や人生観、能力などが左右する。まして、俳句は17文字(音)で表現する短詩であり、論理ではなく感性にうったえるものである。従って、俳句はその作者と「場」を共有するか、それが作られた「場」を適切に推定することが出来なければ理解できないことがある。

  

特にこの「去年今年」の句のように比喩的な俳句は、読む人の見方次第で卑しい句であると誤解されることもある。

  

その逆に、俳句が作者の意図以上によく解釈されることも珍しくない。

  

それは俳句の本質的な限界でもあり広がりの可能性でもある。

  

中立的な表現の俳句は鏡のように、読む人の心を映しだす。

  

虚子はこのような俳句の面白さもこの句に織り込んだのではなかろうか?

             

大岡信さんは「百人百句」において、「俳句という最小の詩型で、これだけ大きなものを表現できるのはすごいと思わざるを得なかった。」と次のように述べている(抜粋)。  

(省略)・・・昭和20年代後半から30年代にかけては『前衛俳句』の黄金時代で、若手の俳人はそちらに行ってしまい、虚子は一人さびしく取り残されている感があった。

・・・(省略)・・・私は現代詩を書いていたので、・・・(省略)・・・どちらかというとはじめに前衛派的な人々の句に親しんだので、それから逆に句を読み進め、高浜虚子を初めてというくらいに読んでみた。すぐに感じたのは、虚子の俳人としての人物の大きさだった。

私は常々現代詩を作り、・・・(省略)・・・斎藤茂吉が好きだったので茂吉の歌もよく読んでいた。しかし、『去年今年』の句を読んだときに、俳句という最小の詩型で、これだけ大きなものを表現できるのはすごいと思わざるを得なかった。・・・(以下省略)

            

この句についてインターネットで検索していると、宗内敦氏の「アイデンティティ-第二芸術」というタイトルの傑作な記事があった。 

     

「去年今年(こぞことし)とは、行く年来る年、時の流れの中で感慨込めて新年を言い表す言葉である。しかして虚子のこの一句、『貫く棒の如きもの』、即ち、時の流れを超えて『我ここにあり』と泰然自若の不動の自我を描いて、まさに巨星・高浜虚子の面目躍如たる『快作にして怪作』(大岡信『折々のうた』)の自画像である。

それが何としたこと、バブル絶頂の頃だったか、ある新聞の本句についての新春特集ページに、『この句を知ったとき、顔が火照り、胸がときめき、しばらくは止まらなかった』という中年婦人の感想文(投書)が載せられた。一体何を連想したのか。破廉恥にも、よくぞ出したり、よくぞ載せたりと、バブル時代の人心・文化の腐敗に妙な感動をもったことを思い出す。・・・(以下省略) 

          

この「中年婦人」を「破廉恥」とか「卑しい」などと決めつけるのは誤解かも知れない。

  

この女性は汀子さんの上記の「虚子自身かも知れない」というコメントと英語「itself」の俗語の意味とを自然に結び付けて連想したのかも知れないのである。   

  

「虚子自身」も自分自身の「それ自身」を客観写生して、「生命力の強さ」をこの俳句で表現したのだ、と深読み出来ないこともない。

                

この句を作ったとき虚子は夏目漱石の「草枕」の冒頭にある有名な文「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」も意識していたかもしれない。 

   

この句の「棒」のイメージは、「草枕」の「情に掉させば流される」という文句や方丈記の名文句、美空ひばりのヒット曲「川の流れのように」の歌詞など、時世・人生を表現するのに用いられる「川のながれ」とは全く異なり、力強くて斬新なものである。

  

虚子は「深は新なり」とか「古壺新酒」と言っている。「花鳥諷詠」と「客観写生」を唱道していたが、「前衛俳句」の黄金時代にあって、「去年今年」の句を作ることによって「これも『花鳥諷詠』だ」と、その幅の広さと虚子の信念と自信をアッピールすることを意識していたのではなかろうか。

  

    

青色文字の「俳句」や「HAIKU」をタップすると、それぞれ最新の「俳句(和文)」や「英語俳句」の記事をご覧頂けます。

  

2015年1月12日 (月)

俳句談義(3):虚子の句「初空や」の新解釈:大悪人は誰か?

    

(2025.1.2 更新)

羽束山望む天神初御空

天満宮参拝終へし初日の出

天満宮参拝すれば初鴉

初空へ平和の使徒の龍昇れ

巳年の龍世界の空へ吾夢運べ

  

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「羽束山」は「はつかやま」、「吾夢」は俳句のリズムに「あむ」と読んで下さい。

写真をタップ拡大すると、初鴉をご覧になれます。

   

初夢の俳句」をご覧下さい。

        (薫風士)

  

(2015.1.12の記事)

正月になれば虚子の句「初空や大悪人虚子の頭上に」のことに思いを巡らせる。

      

この句は従来の一般的な解釈では「大悪人虚子」と読んでいるが、そうであれば、「初御空」と表現するのが自然でないか? 

 

「初空や」の句は5・7・5の定型でないが、「大悪人」と「虚子」を切って間をとって読めば俳句として不自然ではない。

  

虚子が「初御空」と言わず、「初空や」と詠んだのは「大悪人」と「虚子」とを切り離して、文字通り「大悪人が虚子の頭上にいる」と読ませるためでないか?  

  

それでは「大悪人」とは誰を指すのだろうか?   

  

大胆な推定であるが、「大悪人」とは「天智天皇」を指しているのではなかろうか?

   

虚子は同じ頃(大正6年)に「天の川の下に天智天皇と(臣)虚子と」という句を作っている。

  

虚子が「天の川の下に天智天皇と」と並記していることに興味が湧き、ネット検索をしたところ、吉岡禅寺洞の記事に「一千余年を隔てた二人の人物が、ひとしく文学者としてつながり」とあるが、虚子が天智天皇を句に取り入れたのはそれだけが理由ではないだろう。

  

ウイキペディアの解説によると、「天智天皇」は「中大兄皇子」のことであり、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。

入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。

更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。」とある。

    

大義のある改革をするためとはいえ、「暗殺」という非常手段に訴えることは「大悪」である。対立する側からは中大兄皇子は「大悪人」とののしられたであろう。

 

だから「天智天皇のことを大悪人」と言っても不思議ではない。

「初空や」の句は「天の川」の句と併せ読むと、「大化の改新をした天智天皇が大悪人なら、俳句の革新・大衆化を進めている臣たる自分も大悪人である」と感じて、「天智天皇が臣虚子を初空で見守っている」と詠んだものであると解釈することもできるだろう。

  

虚子は俳句を大衆に広めるために「花鳥諷詠」と「客観写生」を唱え、「有季定型」は俳句の重要な要件であると説いている。

しかし、虚子が作った「天の川」や「初空」の句は「定型」の5・7・5ではない。自分と対立する立場の人々から非難もされている。良かれと思ってしたことが傲岸ととられたり、悪い結果になったこともあるかもしれない。自分がしてきたことに対して何らかの罪悪感を持つこともあっただろう。

虚子は「天智天皇も自分も業とか原罪などを同じように持って生まれた人間であり、1200年の時代の差は悠久の宇宙から見れば無きに等しい」と感じていたかもしれない。

         

このような解釈をすると、「一方で『天智天皇と(臣)虚子と』と言いながら、他方で『大悪人虚子』と言って俳句を作ったのも自然の成り行きと言える。

このように考えると、本との出会い(4)」で提起した疑問を解消することができる。

     

「天智天皇を大悪人と言うのはけしからん」とか、「虚子が天智天皇のことを大悪人などと言うはずがない。バカなことを言うのもいい加減にしろ。」と怒る人もいるだろう。

しかし、「選は創作なり」と虚子は言っている。俳句を「鑑賞」し「解釈」することも「創作」と言えないこともない。 

 

虚子は俳句で様々な表現を試みており、その解釈も読み人次第であることを認識していたのだから、「このような解釈も創作の一つだ」として認めてくれるのではなかろうか? 

        

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2015年1月 9日 (金)

本との出会い(6):「虚子俳句問答(下)」と「大悪人虚子」

     

「初空や大悪人虚子の頭上に」ついて、「俳句談義(3):虚子の句『初空や』の新解釈:大悪人は誰か」をブログに書いた後で、俳誌「玉藻」の読者の質問と虚子の回答が「虚子俳句問答 稲畑汀子監修(下)P.196」に下記の通り記載されているのを見つけた。

(質問)

「虚子先生の御句、この場合の「大悪人」という語の複雑なる御意、ご説明願えたら幸甚と存じます。」(川越 横田清子)〔15・1〕

(回答)

親鸞が自分を大悪人といったという心持を、面白いと思っておる私であります。」

 

虚子の上記の回答は真実だろうか?

昭和15年(1940年)は皇紀2600年である。

この年は「紀元二千六百年記念行事が行われ、「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが強まった年であるから「大悪人は天智天皇である」とは到底言えなかっただろう。

そこで、句の説明に親鸞を引き合いに出してさらりと回答したのではなかろうか?

虚子が親鸞のことを句にした「」や「動機」としては、親鸞を尊敬していた夏目漱石(「模倣と独立」参照)が1916年(大正5年)12月に亡くなったことぐらいしか思いつかない。

虚子が親鸞のことを句にした明瞭な理由が見つからない限り、上記の回答が真実かどうかを疑わざるを得ないのである。

1912年(明治45年)には美濃部達吉が『憲法講話』を著し天皇機関説を提唱している。「初空」の句が作られた大正6~7年(1917~8年)ごろは比較的自由にものが言える大正デモクラシーの良き時代であった。

この句を詠んだ虚子の真意は本人と神のみの知るところであり、あくまでも推測に過ぎないが、この頃なら天智天皇を大悪人と言っても問題にならなかったであろう。

何か事実関係についてご存知の方があれば、教えて頂ければ幸いである。

       

    

 

2014年12月29日 (月)

本との出会い(5): 「俳句の宇宙」と「大悪人虚子」

   

「俳句の宇宙」(花神社1989年発行)において、長谷川櫂氏は虚子について次のように述べている。

       

「虚子を勉強していると、ときとき、不気味な虚子に出会う。久女の場合だけに限らない。虚子にとっては、俳句とホトトギス王国とどちらが大切だったのか。俳人だったのか、権力の亡者であったのか――そんな疑問が頭をもたげてくる。あまりにも現世的な姿の虚子。それはたいてい、暗くて大きくて、不敵な笑いを浮かべている。黒い虚子。こういう虚子はなかなか好きになれない。」(第三章2の最後から抜粋)

「しかし、俳人であったのか、権力の亡者であったのか、と二者択一で割り切れないところに虚子のほんとうの難しさ、面白さがあるのかもしれない。虚子のなかでは、よき俳句作家と冷酷な権力者とが、ただ表面上だけでなく、深いところで融合しているのではないだろうか。俳句と「力」とが――といいかえてもいい。「力」という要素は虚子の俳句や俳句観に深く埋め込まれている。虚子の俳句は「力」の表現だともいえると思う。虚子の奥底にあって、磁力を発しつづける「力」。これが17文字の俳句になったとき、図太いとも、また、艶やかとも映るのではないか。」(第三章3の冒頭から抜粋)

  

「虚子は、みずから「大悪人」を名のる。この句(「初空や大悪人虚子の頭上に」)は一見、大謙遜に見えながら、実は大うぬぼれの句であるらしい。自分の「力」への揺るぎない自信。虚子は、この句でも不敵に笑っている。」(第三章3の最後抜粋)

   

「微粒子の世界から星たちの空間まで、響きわたる巨大なオーケストラとしての宇宙。小さな草の芽を見ながら、目の前に湧き起こりつつある宇宙の音を、はっきりと感じとっている虚子。こういう虚子はいちばん興味深い虚子だ。同時に手怖い虚子である。」(第三章5の終わり抜粋)

   

「昭和22年頃、虚子の言葉というのが私の耳にもとどいた――「第二芸術」といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはいなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか。戦争中、文学報国会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った。」(注:『第二芸術』の「まえがき」)(第三章6の終わりより抜粋)         

    

「傍若無人の態度」とは具体的には何を指しているのだろうか? 虚子はこの時期にどんな俳句を作っていたのだろうか?

「俳句の宇宙」からの上記抜粋にあるような虚子の「力」は何から出ているのだろうか?

  

花鳥諷詠の「極楽の文学」としての俳句を世に広めたいという信念の強さが「力」となったに違いない。

そういう信念が、「花鳥諷詠南無阿弥陀仏」や「天の川の下に天智天皇と臣虚子と」「初空や大悪人虚子の頭上に」「去年今年貫く棒の如きもの」などの俳句に結実したのものと思うが、虚子がこれらの句を作った「場」を知りたい。

           

高浜虚子の世界」(角川学芸出版「俳句」編集部)のアンケート「私の虚子」③「いま、虚子について思うこと」に対して、俳文学者矢羽勝幸氏は次のように回答している。(抜粋) 

「③ 碧梧桐の方向も近代化の過程で当然だとは思うが、虚子のとった“九百九十九人のみち”すなわち俳句が庶民文芸であることを(芭蕉の軽み、一茶の最後にめざした俳諧)近代に再生、継承した功績は偉大だと思う。“九百九十九人のみち”を凡人主義と解してはならない。・・・(以下省略)」

 

また、大木あまり氏(俳人)はアンケート②「心にのこる虚子の言葉、あるいは愛読の虚子著作」に対して、次のように回答している。

「② 理論の花より芸の花こそよけれ。標語の花よりも真の実こそよけれ。」

「世評を気にかけないで行動する人は快い。私はそういう人を好む。世評を気にかけて行動する人はみじめだ。私はそういう人を好まない。」

「高遠なる思想を辿る事もよいが、また平凡な日常に処する事も大事だ。」     

                                       

坊城俊樹さんは「虚子の100句を読む」において、虚子の句「石ころも露けきものの一つかな」を挙げて次のように述べている(抜粋)。

  

「・・・(省略)・・・むしろ年尾は『客観写生』『花鳥諷詠』提唱後の虚子の句でも、表現的に単なる写生句より、自然界にあるすべての有情のものとして、人間を含めた、大きな句を取り上げて言っている。年尾の好みと言っていい。筆者もまた、この句に関してはそのように感じる者であるが、虚子はそれをあくまで『月並』的な鑑賞であるとした。

しかし、虚子の謂う『天地有情』という観点からも、この句は現代の伝統派がよく使う、通俗的で安っぽい措辞の『の心あり』『といふ命あり』などとは根本的に異なる広遠な句と思うのだが。

この句をあえて取り上げたのも、大震災の現場にある石ころの映像を見たからである。その被災地にある石ころは只の石ころではない。甚大な被害と、多くの被災者の命を奪った大地にころがっていた石ころである。この句を思い出さずにはいられなくなる石ころであった。」

                  

上記のように、俊樹さんは東日本大震災に言及しているが、この句を虚子が作ったのは昭和4年(1929年)の8月であり、その前の6月には北海道駒ヶ岳が噴火して死傷者も若干出ていたようである。今年は木曽の御嶽山が噴火して多くの死傷者が出た。

虚子はこの「石ころ」の句を作ったとき、駒ヶ岳の噴火を意識していたのだろうか?

1923年に起きた関東大震災について、河東碧梧桐は俳句を作っているが、虚子は一切俳句を作っていないとのことである。

  

「虚子は俳句など短詩にはそれぞれサイズに応じた適所持分があるとしており、後に起こった太平洋戦争や原子爆弾についても俳句を詠んでいません。また、震災忌、敗戦忌、原爆忌を季語として認めていなかった」そうである。

       

いずれにせよ、虚子は、心の糧になる花鳥諷詠の文学、すなわち「極楽の文学」としての俳句、を大衆に広めることを目指していたのだから第二芸術という批判は的外れとして、「俳句も第二芸術まで来ましたか」「十八級特進したんだから結構じゃないか」議論の対象にしなかったのだろう。

          

虚子は、昭和18年に出版した「俳談」の序文に、

 

「何故に何という理屈を述べることはさけて、只何々であるという断定した意見だけを述べたというようなものである。善解する人は善解してくれるであろうと思う。」と述べ、さらに、

    

本ものの虚子で推し通すというタイトルで次のように述べている。 

        

「自分は自分の固く信ずるところがあり、この信仰は何人もどうすることも出来ないものである。他の刀が切っても切ることは出来ぬ、他人の舌が千転してもどうすることも出来ぬものである、ということを固く信じている。従来俳壇に在って、私ほど多くの人々から攻撃されたものも少ないであろうと思う。・・・ 省略・・・自分の俳句は、少しもそれらの言葉に累せらるることなしに、著々として歩を進めているということを、固く信じているのである。」

                    

「天地有情」といえば土井晩翠の詩が有名であるが、このような詩は誰でも簡単に作れるわけではない。俳句は庶民が手軽に楽しむのに適した世界最短の型式詩といえる。これを高邁な文学としてのみ追求すれば一部の専門的俳人しか作れなくなる。虚子は元々俳句の良さ・特質や限界を認識した上で花鳥諷詠の楽しさを大衆に教えることを考えていたのだろう。

善悪のとらえ方や価値観は時代とともに変化する。虚子は悠久の宇宙の森羅万象・人間も含む自然・花鳥諷月を俳句にすることの可能性と限界を喝破していたに違いない。

だから、親子ほど歳の違うフランスかぶれの桑原武夫に第二芸術と言われようと、青臭い議論としてそれに頓着しなかったのだろう。

虚子自身も駄句と批判される句を作っている。虚子が意図したわけではないだろうが、それが結果として俳句を親しみやすい庶民の文芸・娯楽にして今日の俳句の隆盛をもたらしているとも言えるのではなかろうか。

 

現在の高齢化社会で多くの人々が俳句を趣味として老後をエンジョイしている。そのことを知れば、虚子は「傲岸と人見るままに老の春」という俳句を作ったように、大悪人と言われようと自分の選んだ途は間違いでなかった、とニッコリするのではないか。

  

ちなみに、インターネット検索したところ、「傲岸に人見るままに老の春」というのもある。

「に」と「と」では主客逆転した句意の解釈が成り立つ。「に」はミスタイプと思うが、この句は虚子が人を傲岸な態度で見ていることを意味するのか、人が虚子を「傲岸だ」と見ていることを意味するのか、どちらが正しいのだろうか?

  

「君、そんなことは超越していたよ。何事も『色即是空』だ。」という虚子の声が聞こえるような気がする。  

    

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2014年12月19日 (金)

本との出会い(1)「あの海にもう一度逢いたい」

       

(2025.6.3 更新)

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12月9日は漱石忌です。

夏目漱石などの文豪のみならず、市井の素人文人が少なくなく存在していることに日本の民度の高さを感じます。

冒頭の写真はパソコンで見た「趣味の陶芸 爺が自賛 オーブン陶土で作る狸のコンサート」の記事の一画面ですが、身近に陶芸を趣味にしている句友やゴルフ仲間もいます。

       

(2014.12.19の記事)  

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(写真)

三田市在住の木下とし子さんのエッセイ集

   

   

読書週間だからというわけではないが、数年ぶりに図書館を訪ねた。

仲間との俳句談義で話題になった生命科学者である柳澤桂子の「生きて死ぬ智慧」(般若心経現代語訳)など般若心経の本を借りるためである。 

図書館の書棚を見ていると、「あの海にもう一度逢いたい 木下とし子」(日本文学館)という小さな本が目に入った。

表紙一杯に空と海の広々とした写真があり、裏表紙にはの写真が載っていた。 

目次を見ると、最初に「朱い色の記憶」「呪文と念仏と」などがあり、最後の方に「骨壺蛸壺」「私の前生は布切れかも」とか「三途の川の川幅は」などがある。この本の著者は般若心経の本を読んでいるのかもしれない。 

  

「あとがき」に作者は次のとおり書いている。

 

「戦前、戦中、戦後と七十七年生きてきました。

その間に、生活様式も人々の価値観も激しく変わり、とてもついていけないと感じはじめた頃、膀胱ガンを患い障害者手帳を持つ身になりました。

それから十二年、手帳とともに生き、不安と諦めの中から「書く」という幸せを見つけました。

しかし、ほんとうの思いを書くということはとても難しく、(おり)のように心の底に溜まった苦しみや悲しみは、時間をかけて浄化しなければ書けないように思います。

若いときに想像していた「老い」と現実の「老い」の落差を素直に受け止め、これからもその時々の思いをそっと(すく)って書いてみたいと思っています。」

           

この本の作者は日本が太平洋戦争に突入した昭和16年12月8日には小学校5年生だった。「朱い色」とは大空襲で町が燃える色である。「骨壺」とは作者の夫が作った丹波焼の壺である。

阪神大震災の折に墓地の惨状を目にし、無縁仏の多さに驚き、墓を作ることは諦めた。私の骨は太平洋に散骨したい。そのときこの上等の骨壺も一緒に波間に沈めてもらいたい。そしたら蛸が取り合いするだろうか。この壺の住人になった蛸は、今はやりの六本木ヒルズに住むセレブになるのかな。そんなことをクラス会で話したら、『もったいないことせんと僕にちょうだい』と言った男性がいた。---」と、

この作者は少女時代の切ない思い出、家族のこと、阪神大震災福知山線事故のことなど、主婦の目線で時にはユーモアを交えながら切々と書いている。珠玉の小編エッセイである。

    

手作りの骨壺を手に明易し

      (薫風士)

     

般若心経についての本を数冊読んだ結果、俳人高浜虚子辞世句について新解釈をふと思いつきブログを書いた。ささやかなブログであるが、俳句に興味のある方にはかなり読んで頂いているようである。 

ふとしたことからブログを書き始めたが、本との出会い人との出会いなど、不思議なに恵まれている。

そのことに感謝しながら「LOVE」の実践を「(かい)より始めよう」と心掛けているこの頃である。

  

(注)

LOVE」に人の生き方の指針になる英語の言葉24語の頭文字を当てはめています。

子供の教育の参考になれば幸いです。是非ご覧下さい                    

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2014年12月11日 (木)

本との出会い(4):「悪党芭蕉」と「大悪人虚子」(改訂版)

      

今回は、虚子が「初空や大悪人虚子の頭上に」の句を作ったときに意識していた「悪」は何だったか、を考える。

   

高浜虚子没後50年記念として平成21年4月に出版された「高浜虚子の世界」(角川学芸出版「俳句」編集部)の最後に「私の虚子」というタイトルのアンケート記事がある。

アンケート①は「愛誦句3句」をあげることになっており、著名な俳人や歌人などの回答者48名のうち、16名が「去年今年貫く棒の如きもの」を挙げている。

   

小池光氏(歌人)は「悪人虚子」という見出しで、この「去年今年」の句の他に「天の川のもとに天智天皇と虚子と」「初空や大悪人虚子の頭上に」を挙げている。そして、アンケート③「いま、虚子について思うこと」については次のとおり回答している。

   

「③ 要するに保守本流の総大将で、短歌では斎藤茂吉みたいなもので、乗り越えねばならない存在と若いころは決めつけていたが、心空しく読んでみたら茂吉の面白さは無類で、すると虚子もやはり俳句は虚子だと思ってしまうのでないかと、恐れつつ思っている。前の2句など、実に得体が知れない。天智天皇と自分を並べる発想、自分を大悪人と規定する発想、どこからなにゆえ出てくるのだろう。棒の如きものはそれから三十余年の後の作だが、こう並べると妙に交錯して、棒の太さと貫く膂力(りょりょく)の大きさがえらく巨大に感じられる。およそ一筋縄では行かない恐ろしいものが、花鳥諷詠の陰でニタリニタリと笑っているような気がする。」

     

       

      

上記句評の「およそ一筋縄では行かない恐ろしいものが、花鳥諷詠の陰でニタリニタリと笑っているような気がする。」という表現にはちょっと引っかかる。

それはともかく、虚子が一方で「天智天皇と(臣)虚子と」と言いながら、他方で「大悪人虚子」と俳句にしたのは何故だろうか?     

この疑問の解決を私なりに見つけてみたい。

   

「天の川」の句は、稲畑汀子著「虚子百句」によると、大正6年に太宰府で作った句である。汀子さんは「初空や」の句について次のように述べている(抜粋)。

    

     

「大正7年(あるいは6年か)1月、虚子は、<初空や大悪人虚子の頭上に>という句を作っている。暦が更新され美しく澄み切った初空を仰いだ時、それを穢れを去った太初のように無垢な空と感じた虚子は、煩悩に満ちたわが身を振り返り己を大悪人と意識せずにはおられなかったのである。虚子が当時、己の中にどのような悪を意識していたかを詮索する余裕は今は無い。問題は虚子が悪を抱えてどう生きたか、それをどのように自らの作品に結実させたかである。参考になるのは虚子が『中央公論』の大正5年1月号に書いた『落葉降る下にて』であろう。

『これから自分を中心として自分の世界が徐々として滅びて行く其有様を見て行こう』『何が善か何が悪か』

一口で言えば虚子が選択したのは理性ではどうにもならない悪を抱える己という存在を事実存在として受け入れ、責任を引き受けつつ、あるがままに生きるという途であった。

それはまことに文学者らしい生き方であるが、辛い覚悟を要したはずである。虚子はその辛い途を俳句の存問という方法によって歩んだのである。虚子は自己との存問、自然に対する存問を繰り返し、長い時間をかけてついには超越者と存問を交わすようになる。・・・・(省略)・・・・長い期間の存問を経て虚子は我執を脱ぎ捨てたのである。

・・・・(省略)・・・・ 虚子はもう善悪彼岸に立っている。」

    

   

上記の「責任を引き受けつつ」とはどんな責任なのだろうか?         

坊城俊樹さんは「虚子の100句を読むにおいて、虚子が大正4年4月に作った句「春惜む輪廻の月日窓に在り」を取り上げて虚子の四女「六」の病死について触れているが、その責任のことだろうか? 

     

一方、坊城俊樹さんは「虚子の100句を読む」で「天の川」の句について次のように述べている(抜粋)。

     

「虚子は郷里松山での兄の法事に出て九州に船で着いた。そして太宰府を参拝し、都府楼 に佇んでいた彼は何を思っていたのだろう。 ・・・(省略)・・・ 同時に、今このときは日本のために、そしてかつて天智天皇がこの地で唐などからの国土防衛をしたことにおもいを馳せる。その時虚子はいたたまれず、自身もこの天皇の一臣下として国を護ろうと思ったのである。
 虚子のこの懐古とはすなわち、故郷へ向かったあとのその余韻とともに、日本の歴史への懐古そのものを言っている。

都府楼址は、礎石の柱の址がただ延々と続く。そこはだだっ広い空き地のようなもの悲しさである。夕刻には、かの有名な観世音寺の鐘が響く。それは千年を超えた虚子と天智天皇の君子の交わりの鐘の音であった。
この句は『五百句』に、

 
天の川の下に天智天皇と虚子と     (虚子)

  
と.「臣」の字を削除して掲載されている。

  
これは、昭和十二年刊行の当時、大政翼賛会
設立前夜としての抑圧に屈したとしか言いようがない。虚子ごときが天智天皇の「臣」たるは何事ぞ、というわけである。しかし、仮に時代がそうだとしても、この句では本来の虚子の臣たる高揚感と意味が異なってしまう。ましてや、この句では天智天皇と虚子が並立に存在するが如きでよほど不遜ではないか。

筆者および、その周辺ではこの句はあくまで掲句のような「臣虚子」であることに意味があるとして、あえて『五百句』の禁を犯した。

  
もっとも、『五百句』でかように記されていたこの句は、昭和三十一年刊行の虚子自選の『虚子句集』にはすべて掲句のように戻されている。それが虚子のほんとうの心情であったことは明確である。・・・(以下省略)・・・」

        

              

俊樹さんの上記の句評を考慮すると、虚子の意識した『悪』は稲畑汀子さんが上記のようにとらえた『悪の意識』の他にも何か俗世界・世相との関係において考慮すべきことがあったのではないかと思う。

「高浜虚子」に関するウイキペディアの記事(抜粋)によると、「子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。」とある。

    

虚子は「世間が己を悪人と言うならそれも甘受して、自分の信念を貫いて行こう」という決然とした清々しい気持ちで「初空や」という句を作ったのだという解釈も可能ではなかろうか?

    

虚子の句についても解釈が当を得たものになるかどうかは、長谷川櫂さんの指摘した「場」をどのように想定するか、虚子と「場」を共有できるか否かで決まる。

   

なお、虚子やその俳句に対する批評に関するブログを検索すると、この「場」をわきまえず、虚子の人格や俳句を悪しざまに批判しているブログが見受けられることは嘆かわしい。死人に口なしだから義憤を感じてこのブログを書き始めたが、虚子は「そんなことは俺は超越していたよ」というのだろうか?

なお、「エコブログ」(作者はかわからない)に「敵といふもの今は無し秋の月」という虚子の句をタイトルにした興味深い虚子の句評があった。その記事の一部を抜粋すると、

「天皇を信じていなかった鴎外、戦争の大義も敵の存在も信じていなかった虚子。しかし、鴎外は天皇の藩屏として、虚子は日本文学報国会の俳句部長として身を処した。彼らの心中を思い、いま、北朝鮮にいるだう鴎外や虚子のことを思った。」とある。

    

まさに、現在の北朝鮮の状態は戦前の日本の有様を彷彿とさせる。虚子は文学報国会俳句部長としてどのように対処したのだろうか? 戦争を美化する文学や俳句には加担せず、ただひたすら花鳥諷詠を唱道し続ける他に道がなかったのだろう。

  

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2014年12月 8日 (月)

本との出会い(3): 「悪党芭蕉」と「大悪人虚子」(その1)

       

「『悪党芭蕉』という本があるのを知っているか?」と博識の友人から聞かれたことがあった。その時は聞き流していたが、「虚子辞世句の新解釈」についてブログを書いているときに思い出して、「悪党芭蕉」(嵐山光三郎著、新潮社発行)を図書館で借りて読み始めた。

「この一冊を書き終えて、正直言ってへとへとに疲れた。知れば知るほど、芭蕉の凄味が見えて、どうぶつかったってかなう相手ではないことだけは、身にしみてわかった。」と著者が「おわりに」に書いているが、第34回泉鏡花文学賞と第58回読売文学賞を受賞したこの本はなかなかの労作で面白い。

      

ところで、虚子の「初空や大悪人虚子の頭上に」という俳句の句評や虚子自身について様々なブログ記事があるので、それらのブログや『悪党芭蕉』を読んだ感想をブログに書きたくなった。

   

俳句は融通無碍であり、詠む人と読む人の関わり合いや立場・考え方の違いなどで如何様にでも解釈できる。

     

嵐山光三郎氏は「俳聖芭蕉」という通念に対比する視点で「悪党芭蕉」を面白く書いている。

   

「2 『古池や・・・・』とは何か」の最後のパラグラフを抜粋すると、

次のとおりである。

     

・・・・(省略)・・・・

ところで、「蛙が水に飛び込む音」を聴いた人がいるだろうか。

この句が詠まれたのは深川であるから、私はたびたび、芭蕉庵を訪れ、隅田川や小名木川沿いを歩いて、蛙をさがした。 

・・・・(省略)・・・・ 

蛙が飛び込む音を聴こうとしたが成功しなかった。

・・・・ (省略)・・・・

蛙はいるのに飛び込む音はしない。蛙は池の上から音をたてて飛び込まない。池の端より這うように水中に入っていく。

・・・・(省略)・・・・

ということは、芭蕉が聴いた音は幻聴ではなかろうか。あるいは聴きもしなかったのに、観念として「飛び込む音」を創作してしまった。俳句で世界的に有名な「古池や・・・」は、写生ではなく、フィクションであったことに気がついた。 

・・・・(省略)・・・・ 

「蛙飛び込む水の音」は、芭蕉が自分で見つけたオリジナルのフィクションなのである。

     

嵐山光三郎氏は上記抜粋のように断言しているが、芭蕉が詠んだ当時の川や池と自然破壊・人工化の進んだ現在の川や池を同じレベルで判断するのは事実誤認であり、独断も甚だしいと思う。これは悪党云々の根拠の一例に過ぎないが、芭蕉は何というであろうか? このような誤解がブログなどで広まるのも問題である。死人に口なしであるから、子供の頃に川や池に蛙が飛び込む音を何度も聞いたことがある田舎育ちの私が芭蕉の代弁をしておきたい。

          

長谷川櫂氏はサントリー学芸賞を受賞した「俳句の宇宙」(花神社発行)の序章「自然について」で「古池や・・・・」の俳句について次のように述べている(抜粋)。

     

この句を初めて聞いたとき、芭蕉という人は、いったい、何が面白くてこんな句をよんだのだろうかと不思議に思った。

古池にカエルが飛び込んで水の音がした—――-なるほど、一通りの意味はわかる。「自然に閑寂な境地をうち開いている」(山本健吉)といわれれば、そうか、とも思う。しかし、芭蕉は何か別のことを言いたかったのではないか。

・・・・(省略)・・・・

芭蕉の古池の句は、もともと当時の俳諧という「場」に深く根ざしたものだった。時間とともに、その「場」が失われてしまうと、この句が本来持っていた和歌や当時の俳諧に対する創造的批判という意味が見えなくなってしまった。

・・・・(省略)・・・・

そして、俳句がわかるには、俳句の言葉がわかるだけでなく、その俳句の「場」がわからなければならない。俳句の「場」に参加しなければならない。いいかえると、俳句が通じるためには、作り手と読み手の間に「共通の場」がなければならない。

俳句にとっては言葉と同じくらい、言葉以前の「場」が問題だ。そして、俳句を読むということは、その句の「場」に参加することなのだ。

・・・・(省略) ・・・・

いずれにしても子規は古池の句の「場」として自然以外のものを認めようとしない。

虚子はもっと徹底していて、・・・・ (省略) ・・・・ 古池の句をほとんど自然讃歌、生命讃歌の句にしてしまっている。こういうことが起こるのも、古池の句の本来あった「場」が失われてしまっているからだ。 ・・・・(以下省略)・・・・

     

以上のような次第なので、次回のブログで「大悪人虚子」について書くことにしたい。

     

2014年11月22日 (土)

俳句仲間(アカネの酔客)のエッセー(1)「ラジオを録音して聞く話」(昭和史を聞いて下さいね。)

    

(インターネット・リンク追加版) 

  

毎月、俳句会の後で酒を飲みながら俳句談義や趣味の話などに興じている。今月はブログの自慢話(?)をしたところ、話が弾み同席の方の随筆を掲載させて頂くことになった。それぞれの味があって面白い。

まず、昭和9年(1934年)生まれの大学同期会のホームページにA氏が今年の5月に寄稿した随筆「ラジオを録音して聞く話」です。テレビに無いラジオの面白さ・メリットの新発見の話です。

    

(青色の文字をクリックすると、その記事や関連の解説記事などがご覧になれます。)

   

    

    

    

    

    

    

          ラジオを録音して聞く話

                         2014年5月

                         

     昔から本は良く読む方だったと思う。仕事を止めて一年くらいか家を引っ越すこととなり、その時に大量の本を整理したと言うか捨てた。これに虚しさを感じまた暇は十分にあることもあり、その後は専ら図書館で本を借りて読んだ。月に20冊くらい借りて、その内の半分くらいはちゃんと終わりまで読んでいたと思う。ところが70歳を過ぎた頃から、本を読むと目が疲れるようになった。所謂、眼精疲労である。単なる老化かと思っていた。或る日、医者に紹介された近所のメガネ屋に行ったところ、技術の大変高いことを自称するメガネ屋であった。医者の作った診断書は無視され詳細に検眼され、お前は斜位だと言われた。両眼の視力が大きく異なることは自覚していたが、斜位と言う言葉は初めて知った。そして高価な近眼と老眼のレンズを買わされた。

      斜位と言うのは、斜視の軽い奴のようだ。普段は、周りも本人も全く気づかないが、矢張り眼精疲労にはなり易いようだ。と言うような訳と、借りる本が段々となくなってしまったこともあって、次第に図書館通いは少なくなった。今は全く行っていない。

     その代わり、テレビは良く見るようになった。なにせ夜は8時に寝てしまう生活を仕事を止めてからずっとしているので、多くは録画してである。最初の何年かは専らテープでの録画、4-5年前からはDVDである。良く見るのがNHKのEテレ・BSプレミアム・総合、BS1も少し見る。民放も見るが多くない。スポーツ番組は、殆ど見ない。サッカーは目が疲れる、また動体視力の低下の故か、決定的瞬間が良く見えない。ゴルフは見るが、韓国勢が上位に並ぶと見るのを止める。見る物が少ない時は、民放のサスペンス物も見る。NHKの大河ドラマの類は、やたらに怒鳴るのが嫌いなので見ない。 

民放を見ることが少ないのは、出演している人の數がやたらに多く更に芸人と称する人も多く、煩く感じるのが理由である。民放のサスペンス物も、観光案内を兼ねたようなのんびりとした物は好きだが、最近はこういうのが少なくなった。

      ところがこの1年ほど、NHKも民放の番組に似て来た。矢張り世の中の趨勢なのであろう。爺・婆は対象から外れて来ているのであろう。それで見る番組が減って来た。またテレビを見ても目の疲れを感じることが多くなって来た。特に出演者が多くガチャガチャした民放の番組は目が疲れる。

      ラジオは今まで、車を運転している時に時たま聞くことはあった。何時もお喋りが多いと思って来た。要するに暇な無責任な会話である。家内が何年か前からラジオを聞いているが、矢張りお喋りが多いと私は思って来た。この無責任なお喋りはどうも聞く気になれない。

      ところがこの1月になり、ネットで調べて出てきたNHKラジオの第一、第二、FMの番組案内「らじる*らじる」を見ていたら、土・日に集中してはいるが教養番組が多くあることを知った。このNHKラジオの番組案内は、番組の詳しい説明もあり大変有効である。そこでラジオに興味を持った。前に述べたようにテレビは殆ど録画して見ているので、ラジオも録音出来ないかと調べて見たら、「ラジクール」と言う無料のソフトをダウンロードすれば良いことが判った。ところが、このダウンロードを一度試みたが上手く入らなかった。

 そこで、録音したラジオはどうせ気楽な姿勢で聞くことになるであろう、それにはパソコンは不向きではなかろうかと考えた。そして、録音出来るラジオは売っていないかとネットで調べてみたら、2種類ほど出て来た。通信販売でそのまま買おうかと思ったが、どうも爺さんはこれに少し抵抗があるので、1月末に近所の家電量販店に行った時に見てみた。なんと録音出来るラジオはたった1種類、大きさはその昔の弁当箱くらいで重さも軽かった。ベテランらしい店員さんに何に使うのですか?と聞かれる始末で、どうも録音出来るラジオと言うものは沢山売れている様子ではなかった。

      兎に角、そのラジオを買った。店頭価格17,000円のSONYのICZ-R51と言う奴である。

      初めは、「らじる*らじる」で調べたNHK第二ラジオの教養番組を主に聞いていた。その殆どの番組が週に一度の放送で3か月単位で成り立っている。2月初旬は、この中途であったので、中途から聞き始めることになった。今は4月から始まったものを聞いている。ちゃんと聞いている番組の一つが、古典講読と言う番組の「奥の細道」である。講師の喋り方が大変眠気を誘うので、しばしば眠ってしまうが、録音の有難さで巻き戻しをして聞いている。「奥の細道」をちゃんと読んだことがないので、この機会と思っている。内容それ自身も、かなり面白いが、こういう物を研究している人たちは、こう言うことをあれこれと詮索するのだと言うことを知る意味でも面白い。極端に言えば、証拠のないことを糞真面目に論じる邪馬台国研究に少し似ている。

      短編小説の朗読も面白く聞いている。この手の物をかなり長い間読んで居なかった為だろうと思う。いずれにせよ、ラジオでは喋るのはひとりかふたり、喋りまくられる心配はない。しかし、録音して置いて実際に最後まで聞くのは、半分以下或は三分の一くらいであろうか。

     2月中旬か下旬頃に、「らじる*らじる」を見ていて、ラジオ深夜便と言う番組があることに気が付いた。これも「らじる*らじる」で中身をかなり詳しく知ることが出来る。夜の11時台から始まり、一時間毎に区切りが入って、6ッの番組から成り、朝の5時に終わる。2時台と3時台は音楽番組である。一区切りの中に、ニュースや音楽やお知らせなどが入るから、一区切りの中のメイン物の時間は30~40分であろうか。

 

    このような時間を誰が聞いているのであろうか?深夜族は今非常に多いので、深夜2時までの番組は聞いている人が居ることは理解出来る。しかし4時台の番組はどんな人が聞いているのであろうか?早く目が覚めてしまう早起き爺さんであろうか?そうすると2時までの番組を聞いている人とは別の世界の人と言うことになる。

     歌番組を除いて毎日4番組、一時間当たりの中身が約40分として、毎日約2時間40分となる。初めは、「らじる*らじる」を見て選択して録音していたが、今は機械的に録音している。「毎日録音」を選択すれば毎日同じ時間を録音して呉れる。詰まらない内容の物も多いので録音しても最後まで聞くのは、実際には三分の一から二分の一となる。

    かなりの頻度で聞いているのが、通信員と言うのか各地に住んでいる人の現地報告である。日本に住んでいる人の話は新鮮味に欠けるのであまり面白くないが、外国に住んでいる人の話は大体面白い。

     この原稿を書くことを予告された5月初めから、聞いて特に印象に残っているのは次のようなものである。一つ目は雨水の利用である。墨田区役所に勤務し始めて僅か5年くらいの時に、ここに集中豪雨による被害が出た。そこで専門外の若僧ではあったが雨水の利用を提案して検討チームを結成し、まず国技館にこれを敷設した。今は全国の新設の大きな建物では全てトイレの水は雨水をなっているようだ。スカイツリーもそうのようだ。今はこの人はバングラディシュで雨水の利用のプロジェクトを推進して、年に半年はバングラディシュに滞在していると言う。バングラディシュでは、地下水に天然の砒素が混入しているのだそうである。

    二つ目は、「昭和史を語る」である。4回番組で先日は昭和2年と3年とをやっていた。大正天皇は12月25日に逝去されたので昭和元年はなきに等しいと言うのも改めて認識した。浅草と上野の間に日本で初めての地下鉄が開通したのが昭和2年とか、ラジオ放送が大正14年の3月に始まったとか、その時の録音が残っていてそれが放送されるとか、関東大震災が大正12年だったことも改めて認識した。昭和恐慌が、その時の大蔵大臣の不用意な発言が元で銀行の取り付け騒ぎが起こったのが発端であったと言うのは初めて知った。

ニュージーラン人で剣道7段、居合術5段、薙刀5段で武道の研究で京大で博士号を取った人の話も面白かった。「残心」なる言葉を初めて知った。広辞苑によれば、「残心」は、剣道で、激突した後、敵の反撃に備える心の構えとある。「道」である相撲で、勝った時にガッツポーズをするのは怪しからんと言う非難の声が一時あったと思うが、この意味も初めて判った。

    と言うように、この2月から録音してラジオを楽しんで居る。テレビには少なくなってしまった爺・婆が楽しめる番組がラジオにはまだ多いと思う。、この文章が誰かの為のなんらかの参考になれば幸いと思う。

   

(注:ブログの見方)

青色の文字をクリックすると、その記事や関連の解説記事などがご覧になれます。ここ(らじるらじる)をクリックするとNHKネットラジオの詳細について検索できます。「昭和史を語る」をクリックして、表示されたリストのタイトルをクリックしてその内容の触りを音声で聞くことが出来ますよ!

2014年11月20日 (木)

俳句談義(2):虚子辞世句「春の山」の新解釈について

     

虚子が亡くなる二日前に詠んだ句「春の山(かばね)を埋めて空しかり」について、「これは辞世の句であり、『空しかり』は『むなしかり』ではなく『くうしかり』と読むべきではないか?」と、俳句談義(1)で新解釈を提唱したが、虚子の墓所は鎌倉五山の第三位である「寿福寺」にあることを知り、なおさらその考えに確信を抱いている。「春の山」は単なる山を意味するのではなく、鎌倉五山や山寺に思いを馳せ、「屍」とは埋葬されるであろう自分も含めて諸々の死者を指しているのではないか? 

春風や闘志いだきて丘に立つ」や「去年今年貫く棒の如きもの」などの俳句を作り、俳句界に偉大な功績を遺した稀有の俳人が自分の死を予期して「むなしかり」と詠んだとは思われない。

子規は「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」と自分の死を達観してユーモラスに詠んでいるが、虚子は「空とは真にこのことだ」と自分の死を達観して、「般若心経の『色即是空』とはこんなものだよ」と虚子の悟りの境地を詠んだものと愚考している。しかし、碧梧桐の「君が絶筆」などを読むと、子規の掲句は「ユーモラス」という表現が当たらない悲壮な客観写生であることがわかる。

    

(「俳句には読む人の考えやその心持によって如何様にでも解釈できる曖昧さや広がりがあり、解釈の一つである」と、新解釈を掲載しました。青色文字をクリックするとリンクしたサイトの関連の解説記事や写真をご覧になれます。是非ご覧下さい。)

   

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2014年11月19日 (水)

俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(13)

俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(8)」において、HIAのホームページに記載された石田波郷の俳句(「(かりがね)やのこるものみな美しき」)の翻訳を取り上げて、「all」の単数・複数扱いの違いに言及したが、それどころかその翻訳はそもそも不適切であり、句意を訳出していないことに気づいた。 

wild geese――
all that remains
beautiful
 

HIAホームページ掲載の上記翻訳において、「remain」は「be動詞」と同じような意味に解釈される。2行目と3行目を続けて読むと、「のこるものみな美しき」という意味ではなく、「美しいままであるもの全て」という意味になる。すなわち、「後に残していくものがすべて美しい」という句意にするには、「all that remains」ではなく、「all that remains here」とするか、「all I leave behind」とか、「all that stay behind」などとすべきところである。

例えば次のように翻訳すると、句意は訳出できるが散文的で面白くない。

wild geese――
beautiful
all that I leave behind

    

英語のHAIKUでは「I」を使わない方がよいと言われるので、

wild geese――
beautiful
all that are left behind

と受動態で記述すると、句意が曖昧になり不満が残る。

 

そこで、次のように翻訳すれば句意に最も近くなるだろう。

wild geese――
beautiful
all that stay behind
 

   

日本語は情緒的なので俳句として美しいが、その意味を訳出しようとすると英語は論理的なので散文的になりがちである。俳句と英語の俳句HAIKU)を両立させて翻訳することは至難である。

   

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