俳句の新解釈・鑑賞 <去年今年貫く棒の如きもの(高浜虚子)>
掲句について稲畑汀子さん(ホトトギス名誉主宰)は「虚子百句」において次のように述べています(抜粋)。
「この棒の、ぬっとした不気味なまでの実態感は一体どうしたことであろう。もしかすると虚子にも説明出来ず、ただ『棒』としかいいようがないのかも知れない。敢えて推測すれば、それは虚子自身かも知れないと私は思う。この句は鎌倉駅の構内にしばらく掲げられていたが、たまたまそれを見た川端康成は背骨を電流が流れたような衝撃を受けたと言っている。感動した川端の随筆によって、この句は一躍有名となった。」
川端康成は掲句のどの点に衝撃を受けたのでしょうか?
川端康成も一般的な解釈と同じように「棒」とは「時の流れ」の比喩であると解釈したのでしょうか?
「虚子の俳句『去年今年貫く棒の如きもの』の棒とは何か?」に於いて、チュヌの主人は「中立的な表現の俳句は鏡のように、読む人の心を映しだす。」と書きましたが、外山滋比古氏は「省略の詩学―俳句のかたち」(電子書籍)に於いて次のように述べています。
「一句の意味はひとつに限ると考えるのからして大きな誤解で、受け手によって句意は変わる。十人十色の受け取りができてこそ俳句はおもしろい。あいまいさは、作者に多くの諷意を許容し、受け手には自らの意味を生み出す喜びを与える。」
また、外山氏は高浜虚子の掲句「去年今年」について次の通り句評しています。
「措辞ははなはだ粗雑であるが、年のつらなりを棒にたとえるのは奇想である。人はその奇抜さに興ずるのであろう。名句の名をほしいままにしている。」
外山滋比古氏の「省略の詩学」は桑原武夫の「第二芸術論」の対極にあると言えます。俳句愛好家にとってありがたい著書です。しかし、「措辞ははなはだ粗雑」という句評にいささか語弊があります。
外山氏は、「去年今年」を主語(主体)として捉えて句意を解釈しているから、「措辞が粗雑である」と考えたのでしょう。
「去年今年」を副詞として捉え、主語(主体)は省略されていると解釈すると、この批判は妥当でないことが理解できます。
日本語では主語がよく省略されます。外山氏の言にあるように、俳句は「省略の文学」です。この俳句で省略された主語(主体)は「虚子の花鳥諷詠の俳句に対する信念」であるといえるでしょう。
虚子は「春風や闘志抱きて丘に立つ」という俳句を39歳の時に作っています。この闘志を持ち続けていることを、「去年今年貫く棒の如きもの」と、77歳の時に詠んだものであると解釈するのが至当でしょう。すなわち、「自分の信念は去年とか今年とかいう時の区切りを突き抜く固いものであり、生きている限り変わらない」と言っているのでしょう。「時の流れ」は未来永劫に続くものですから、「棒」をその比喩と解釈することにはやや無理があり、虚子の真意では無いと思います。
ちなみに、主体が省略された虚子の俳句の一例として、次の俳句(河東碧梧桐への追悼句)が参考になります。
・たとふれば独楽のはぢける如くなり
この句に於いては、たとえば、主語となるべき「虚子と碧梧桐の関係」が省略されています。
(「高浜虚子の100句を読む」(坊城俊樹)下記URL参照。)http://www.izbooks.co.jp/kyoshi81.html
インターネット歳時記には、「去年今年」の俳句が750句ほどあります。
「去年今年」が副詞的に用いられている俳句が大多数ですが、ご参考までに下記に例句を若干抜粋します。
(副詞的に用いた例句)
・去年今年机上に積まれたるままに
(稲畑汀子)
・良きことも良からぬことも去年今年
(今井千鶴子)
・去年今年平和を祈る手でありぬ
(橘高絹子)
(「去年今年」を主体ないし客体として用いた例句)
・聞き慣れし振子のつなぐ去年今年
(鈴木美江)
・何かある闇でつながる去年今年
(千坂美津恵)
次の俳句は虚子の掲句を意識して「去年今年」を主語として作ったものでしょうが、「去年今年」を副詞として解釈することも可能です。
・去年今年大河の如くありにけり
(竹下陶子)
ちなみに、稲畑廣太郎氏(ホトトギス主宰)の俳句に、虚子の掲句を意識して作った俳諧味のある句があります。
この俳句の「去年今年」は単なる季語の取り合わせですが、「棒」を「時の流れ」の比喩であると解釈すると、「棒が折れること」は「地球が破滅すること」を意味することになるでしょう。
トランプ米国新大統領の就任などで「世界終末時計」が進められたというインターネット記事がありました。トランプ氏が米国新大統領として良識ある為政をすることを祈るばかりです。