俳句HAIKU《言葉の壁を破るチャレンジ》(通読版)
「俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ」というタイトルで俳句の翻訳の難しさについてシリーズ14まで書いたものを見直し、要点を通読出来るように再編しました。
国際俳句交流協会のホームページ(HIA)にある名句選・鷹羽狩行選の例を取り上げました。
・啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々
この句は水原秋櫻子の代表句の一つといわれていますが、山本健吉は「定本 現代俳句」において次のように解説しています:
「この句の感触には、いつまでも色あせない瑞々しさがある。このような句で『牧』と言うと、日本流の牧場よりも西洋流のmeadowといった印象を受けるから不思議である。高爽な清澄な晩秋の空気さながらに美しい風景句として現出する。『落葉をいそぐ』というのも美しい言葉だ。葉を落とした木肌に、啄木鳥が叩いている姿があらわなのである。」
この山本健吉の解釈を考慮すると、HIAに掲載されている英訳:
woodpecker——
leaves quickly fall
in the meadow
は散文的記述でありながら、曖昧模糊としてしっくりしません。この場合「leaves」は名詞「leaf」(葉)の複数形ですが、動詞「leave」(去る)の三人称・単数形とも取れます。
英語のHAIKUは読む順にすぐ意味が理解できる語句・語順にすることが望まれます。
牧場の木にたまたま啄木鳥が見えたのだとすると、次のように英訳したらどうでしょうか?
a woodpecker -
the meadow tree shedding
the leaves in haste
あるいは、啄木鳥の音を聞いて牧場の木を見たのだとすると、次のように英訳してはどうでしょうか?
the sound of a woodpecker -
the meadow tree shedding
the leaves in haste
次は山口誓子の俳句の試訳です。
・夏草に汽罐車の車輪来て停る
この句について、山本健吉は「定本 現代俳句」において次のように解説しています:
「山口誓子の近代俳句の一例である。おそらく大阪駅の引込線に汽缶車が来て止まったのだろう。線路の傍には夏草が生えていて、それに車輪が触れんばかりなったのだろう。汽缶車が止まったと言わず、「汽缶車の車輪」が来て止まったと言ったことに、作者の即物的実感が生々しく出ている。これも動詞終止形止めの典型的な表現である。」
山本健吉の上記の解釈を考慮すると、HIAに掲載されている英訳:
summer grasses——
the wheels of the locomotive
come to a stop
はいまひとつぴんと来ない感じがします。「come to a stop」は現在では単に「止まる」という意味です。
次のように英訳してはどうでしょうか?
the summer grasses_
wheels of a locomotive appeared,then
came to a full stop
因みに、後藤夜半の俳句「滝の上に水現れて落ちにけり」の英訳:
above the waterfall
water revealed
becomes waterfall
が同じ名句選に掲載されていましたが、文法的に不適切な英訳だと思います。
水の動きを生き生きと表現している原句のニュアンスを訳出するには次のように翻訳した方がよいのではないでしょうか?
above the waterfall
the water appeared, then
fell in torrents
中村草田男の代表句の英訳に挑戦しました。
・万緑の中や吾子の歯生えそむる
この句について、山本健吉は「定本 現代俳句」において次のように解説しています(抜粋):
「『万緑の中や』---粗々しい力強いデッサンである。そして、単刀直入に『吾子の歯生えそむる』と叙述して、事物の核心に飛び込む。万緑と皓歯との対象---いずれも萌え出ずるもの、熾んなるもの、創り主の祝福のもとにあるもの、しかも鮮やかな色彩の対比。翠したたる万象の中に、これは仄かにも微かな嬰児の口中の一現象がマッチする。生命力の讃歌であり、勝利と歓喜の歌である。」
上記の解説に照らすと、HIAに掲載されている英訳:
along with spring leaves
my child's teeth
are coming in
は物足りない気がします。草田男のこの俳句が「万緑」を夏の季語として確立した名句といわれていますから、「spring leaves」は不適切でしょう。
myriads of green leaves_
the first tooth of my child
has sprouted
しかし、文字通りの英訳には不満が残ります。日本語は本来情緒的な面があり、切字「や」の効果が効いているので原句の記述の仕方に抵抗を感じませんが、英語のHAIKUとしては論理の飛躍が大きくてしっくりしません。
次のように意訳してはどうでしょうか?
the myriads of green leaves_
my child
has sprouted his first tooth
もし女の子なら「his」を「her」にすることは言うまでもありません。
正岡子規の俳句「鶏頭の十四五本もありぬべし」の英訳について考えました。
cockscombs
must have been fourteen or fifteen
blooming over there
は鶏頭を思いだして詠んでいることになります。
子規は鶏頭を実際に見て詠んでいるのでしょう。現に見ているものや心に抱いているものを詠んでいる場合は、定冠詞を付けた方がよいと思います。次のように英訳すればどうでしょうか?
the cockscombs,
there must be fourteen or fifteen
in bloom
松尾芭蕉の有名な句「閑かさや岩にしみ入る蟬の声」の英訳を取り上げました。 この句について、「百人百句」(大岡信著、講談社)に次の解説(抜粋)があります。
「この句の特色の一つは、S音が『し、さ、し、せ』と断続的にあらわれて、『しみ入る』という感覚を非常によく表現していることである。さらにまた、『しみ入る』は日本の詩歌の美意識のもっとも重要な鍵を握っている言葉の一つでもある。」
インターネットで検索していると、「おくの細道」ドナルド・キーン訳 講談社インターナショナルに次の英訳がありました。
How still it is here—
Stinging into the stones,
The locusts' trill.
この翻訳では、「しみ入る」を「stinging into」に翻訳し、「岩」を「stone」に翻訳しています。「道浦俊彦・とっておきの話 ことばの話1341『セミの鳴き声』」に次の英訳がありました。
such stillness-
the cries of the cicadas
sink into the rocks.
「Haiku Topics, Theory and Keywords」というサイトに様々な翻訳が紹介されていますが、ドナルド・キーンさんの上記の翻訳が最も良いと思いました。
しかし、次のように英訳した方が更に原句のニュアンスに近い翻訳になる気がします。
what a stillness!
a cicada voice,
seeping into the crag
HIAの名句選に米国の Celia Stuart-Powles さんの英語HAIKUの和訳の問題を取り上げました。
Barely contained
in its thin velvet skin
- soft fragrant peach
・熟れ桃やビロードの肌はちけそう
原句は「柔らかな香りのよい桃(soft fragrant peach)」を詠んだもので、その桃は「薄いビロード状の皮(thin velvet skin)」に「かろうじて包み込まれている(barely contained)」状態であるという意味であるが、直訳したのでは俳句にならない。たとえば、文語に翻訳するとすれば、「ビロードの皮はじけむや熟れし桃」となり、口語に翻訳すれば、「ビロードの皮はじけそう桃熟れて」などと、意訳することになる。
俳句として翻訳するには、原句に記述された「薄い」とか「柔らかな香りのよい」という形容語は全て割愛して「熟れし」の一語に集約して、読者の想像に委ねざるを得ないのである。
「HAIKU」では詳細な記述がなされていも、簡潔な記述に翻訳しなければ俳句らしくならない。逆に、「俳句」を「HAIKU」に翻訳する場合は語句を補充して、「HAIKU」として分かりやすくする必要があることが多い。
星野立子の俳句「美しき緑走れり夏料理」の翻訳にチャレンジしました。 「夏料理」について、「日本大歳時記」(講談社版)は次のとおり解説しています。「夏の暑さを忘れるように、見た目に涼しげに皿に盛り、また氷片を敷いたりして料理そのものを冷たくした料理の総評。そのなかには、船料理・洗膾・水貝・冷汁なども含まれる。」
また、「合本 現代俳句歳時記」(角川春樹編)の解説は次のとおりです。「特定の料理を指すのではなく、夏の暑さを忘れるような見た目に涼しげで、口当たりのさっぱりとした料理の総称。冷奴、水貝、洗い、きゅうりもみ、冷麦、そうめんなど。氷片を敷いたり、ガラス器や竹の籠に盛ったりして食欲ををそそるよう、工夫を凝らした料理。」
大岡信は「百人百句」(講談社)でこの句について、「目に涼しく、味はさっぱりした夏料理。その外見の印象をとらえて、星野立子という俳人ののびやかな感性がそのまま句に表れている。・・・・・」(抜粋)と解説しています。
beautiful lines
of green run through
the summer dishes
「green」は「緑色」の意味なので、「beautiful lines of green」は「緑色の美しい線」を意味するものと解釈され、夏料理の器(ガラス皿など)に「緑色の美しい線」があるという句意になります。 「緑」が料理を意味するとすれば、たとえば次のように英訳するとよいでしょう。
beautiful greens
arranged side by side
the summer dishes
上記のように「arranged」や「laid」などを用いると意味は明瞭になりますが、「走れり」という表現の面白さは反映されません。しかし、「run」とか「run side by side」とすると、比喩的表現と取られず文字通り「走る」意味と解釈され「ナンセンスだ」と言われる可能性があります。
HIAのホームページ「名句選」に掲載された加藤楸邨の俳句「木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ」の下記の英訳について考えました。
leaves falling
never-ending
yet why, so fast
現代俳句協会の現代俳句データベースには次の解説(抜粋)があります。
「いったい何をそんなに急ぐ必要があるのか。もっとゆっくりしたらどうか。『いそぐないそぐなよ』と呼びかけずにはいられない楸邨の思いが滲み出ている。」
次のように翻訳すれば原句のニュアンス・句意を訳出できるでしょう。
the leaves falling ceaselessly_
don't hurry
don't hasten
石田波郷の俳句「雁やのこるものみな美しき」の翻訳にチャレンジしました。この句について、石田波郷は「波郷百句」<自句自解>において次のように解説しています。
「昭和十八年九月二十三日召集令状来。雁のきのふの夕とわかちなし、夕映が昨日の如く美しかつた。何もかも急に美しく眺められた。それら悉くを残してゆかねばならぬのであつた。」
HIAのホームページ「名句選」(鷹羽狩行選)に下記の英訳があります。
wild geese——
all that remains
beautiful
しかし、この句は例えば次のように英訳すべきでしょう。
wild geese——
beautiful
all that I leave behind
なお、HIA掲載の英訳では「all」を集合名詞とし、単数扱い(remains)にしていますが、石田波郷が自解で「何もかも」「それら悉く」と言っていますから、「all」は複数扱いにし、「remain」とすべきでしょう。
HIAホームページ「俳句・ハイク」「名句選」のジェームス・W・ハケット(James William HACKETT)10句選冒頭の下記HAIKUと翻訳について考えました。
back empty-handed
from the bursting meadow: idle
ikebana bowl
McMaster, Visnja (Croatia)
マクマスター、ヴィニア(クロアチア)
・花器は空っぽ野の花摘むをためらえば
上記の翻訳は工夫されているが、「野の花摘むをためらえば」は考え過ぎ・意訳し過ぎです。「bursting」は「---で充満する」などと言う意味ですが、「花が野に充満しているなら」躊躇せずに花を摘むでしょう。この場合は、鮮やかな新芽が草原いっぱいに広がっている状態を「bursting meadow」と表現していると解釈して翻訳するのが良いと思います。「花が咲いていることを期待して草原に行ったが、まだ摘み取れる花はなく空しく手ぶらで帰った」という気持ちで、「back empty-handed」と冒頭に記述し、最後に「idle ikebana bowl」(「折角持参した花器を使わずじまいだった」)と些か残念な気持ちでいることを詠んでいるのでしょう。
例えば、「空の花器手にし帰るや萌ゆる原」などと翻訳すればどうでしょうか?
HIAのHPの「愛好10句」ウィリアム・J・ヒギンソン(俳号:緋庵)抄出に掲載されている加藤楸邨の俳句「火の奥に牡丹崩るるさまを見つ」の英訳について考えました。
この俳句について、山本健吉の解説(「定本 現代俳句」より抜粋)は次の通りです。
「5月23日、深夜大編隊空襲、一夜弟を負ひ、二子を求めて火中彷徨」と前書きがある。次いで、「5月24日、我が家も消失、雲の峰八方焦土とはなりぬ」「明易き欅にしるす生死かな」。豪華な句である。家が火で崩れ落ちるさまを、「牡丹崩るる」と形容したのである。だが、単なる形容ではなく、楸邨式に言えば作者の感情の昂揚が牡丹に「感合」したのである。---- 比喩としての牡丹ではあるが、作者はまざまざと大輪の真紅の牡丹の崩れ落ちるさまに、目を見張っているのだ。比喩の裏付けとしての作者の感動の大きなゆらぎを感じとることができるのだ。
上記の解説の句意はHIAのHPに掲載された次のHAIKU(英訳)に反映されているでしょうか?
in the fire-depths
saw the way
a peony crumbles
上記の英訳では原句の句意は全く分かりません。
山本健吉が解説しているような作者の意図を訳出することは至難の業ですが、次のように思い切った意訳をすれば、すこしは句意が反映されるのではないでしょうか?
in the air-raid fire
my house burnt down
like a crumbling peony
HIAのホームページ「名句選」「愛好10句」コー・ヴァン・デン・フーヴェル抄出に掲載されている正岡子規の句「雷晴れて一樹の夕日蝉の声」の翻訳を取り上げました。
after the thunder-shower
one tree in evening sunlight
a cicada's cry
子規はこの句で一匹の「蝉の声」を聞いたので「蟬時雨」と言わなかったのでしょうか? 一般に「蟬の鳴き声」は「蟬時雨」という季語があるように賑やかなことが多いが、雨上がりに一斉に蝉が鳴きだしたのを聞いた記憶からすると、この句の蟬の声は複数として英訳してみたい気がします。「一樹の夕日」は「一樹に夕日が差している」ことを詠んだのでしょうか? 子規は蕉風に対抗して写生を唱道したのですから、子規が実際に見たであろう風景を自分なりに想像して、次のように試訳してみました。
an evening sunlit tree
after the thunder-shower_
cries of cicadas
芭蕉の俳句「閑かさや岩にしみ入る蟬の声」のドナルド・キーンさんの英訳について再考しました。この句は芭蕉が「立石寺」(山形市)で詠んだものですが、俳句の対象となった蝉の種類について、歌人・精神科医の斎藤茂吉はジージーと鳴くアブラゼミであると主張し、芭蕉研究家の小宮豊隆はチィーチィーと小さく鳴くニイニイゼミであると主張して蟬論争が起こり、検証の結果ニイニイゼミで決着したとのことです。 「俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(4)」において、「ドナルド・キーンさんの英訳:
Such stillness-
The cries of the cicadas
Sink into the rocks.
に納得した」と書きましたが、蝉論争に関する記事を読んだりして、この英訳を再検討しました。「The cries of the cicadas」(複数形)を「The cries of a cicada」(単数形)にしたらどうでしょうか? 「蝉が蟬時雨のように鳴いていても芭蕉は閑さを感じたのだ」と考えることも出来るますが、1匹のニイニイゼミの声の他には何の物音もしない静寂を詠んだのだと素直に考えることも出来ます。蝉は一頻り鳴いては移動する習性があります。
蝉の声が岩にしみ込んでいくように感じられる閑さを詠んだ俳句だと解釈して、次のように試訳しました。
absorbed into the crag
the cries of a cicada_
the stillness
「俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(8)」において検討した石田波郷の俳句(「雁やのこるものみな美しき」)の翻訳は単に「all」の単数・複数扱いの違いどころか、HIAホームページ掲載の下記原訳はそもそも不適切であり、句意を訳出していないことに気づきました。
wild geese――
all that remains
beautiful
上記翻訳において、「remain」は「be動詞」と同じような意味に解釈されるので、2行目と3行目を続けて読むと、「のこるものみな美しき」という意味ではなく、「美しいままであるもの全て」という意味になります。「後に残していくものがすべて美しい」という原句の句意にするには、「all that remains」ではなく、「all that remains here」とするか、「all I leave behind」とか、「all that stay behind」などとすべきでしょうが、次の翻訳が句意に最も近いHAIKUになると思います。
wild geese――
beautiful
all that stay behind
情緒的な日本語の俳句と論理的な英語の俳句(HAIKU)を両立させて翻訳することは至難ですね。
HIAホームページのトップにある俳句「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)を取り上げました。大岡信の「百人百句」(講談社)におけるこの句の解説(抜粋)によると:
「廊下の奥というささやかな日常生活に、戦争という巨大な現実は容赦なく侵入してくる。その不安が一種のブラックユーモアとして言いとめられている。この句は新興俳句が理念の一つとした社会批判や社会性を意想外の角度から巧みに表現しており、昭和14年に作られているというところに先駆的な意味を持っていた。渡辺白泉という俳人が特別鋭い社会感覚を表現できた人である --- --- 昭和15年に京大俳句事件で検挙され執行猶予になるが、執筆停止処分を受けた。」とあります。
渡辺白泉がこの句を作った頃の日本社会の不気味さを比喩的に「廊下の奥」と表現し、自由にものが言えない時代に「戦争」の予感・警告をかろうじて俳句にしたのでしょうか? 「立ってゐる」としないで「立ってゐた」と過去形にしたのはなぜでしょうか? 白泉を尾行している特高警察がどこかの廊下に立っていたことを戦争に例えて俳句にしたのでしょうか? この句は季語もなく、伝統的な俳句を代表するものでもなく、川柳かと思うような句であり、作者や時代背景の解説がなければ、全く理解できないものです。この句について、HIAの名句選「愛好10句 金子兜太抄出」には次の英訳が掲載されていました。
The War
in the dark at the end of the hall
it stood
この句の作者の意図や時代背景など何も知らない外国人が上記の英訳HAIKUを詠んで句意を理解できるとは思えません。「廊下の奥(in the dark at the end of the hall)」という比喩を理解できるでしょうか? 「The War」とは第2次世界大戦のことであり、「it stood」と記述しているのは「過去のものだ」と言っているのだと誤解するかもしれません。
この句の比喩をHAIKUとして訳出しようとすれば、例えば次のように意訳すればどうでしょうか?
a warmonger
stood
at the end of the hall
又は、
war
at the end of hall__
threatening
上記最初の意訳では「戦争」を「warmonger(戦争屋)」と意訳し、「事実を詠んだ俳句として冠詞を普通通りに付けてあります。「the War」とすれば第2次世界大戦など最近の大戦を指すことになり、「the hall」とすれば日常使っている特定の「廊下」を指すことになり、原句の比喩の理解の妨げになるでしょう。従って、二つ目の意訳では抽象的に漠然と比喩的に表現したものとして、「war」や「hall」に冠詞を付けていません。
国際俳句交流協会(HIA)では俳句を国際的に広めて、無形文化世界遺産に登録されるように努力しているとのことです。俳句が国際的に広がり、日本人は自国のみならず世界の平和を希求していることが国際的に理解されることを切望しています。
言語の違いが単に俳句・HAIKUの国際化のみならず世界平和の実現の障壁となっていることを今更ながら痛感します。
ささやかながらこのブログが俳句の国際化、世界平和の実現への草の根運動の一助になれば幸いです。
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