俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(9)
国際俳句交流協会のホームページ掲載の「俳句・ハイク」「名句選」のジェームス・W・ハケット(James William HACKETT)10句選の冒頭に次のHAIKUと翻訳句が掲載されている。
back empty-handed
from the bursting meadow: idle
ikebana bowl
McMaster, Visnja (Croatia)
マクマスター、ヴィニア(クロアチア)
花器は空っぽ野の花摘むをためらえば
上記の翻訳はうまく工夫されているが、「野の花摘むをためらえば」は考え過ぎ・意訳過ぎの感じがする。
「bursting」は「---が突然現れる」とか「---で充満する」などと言う場合に用いられる。
「bursting meadow」と言う表現において「---」が何であるかがこのHAIKUの解釈のポイントになる。このHAIKUの場合「---」を「花」と解釈することは不適切だろう。「花が野に充満しているなら」躊躇せずに花を摘むだろう。この場合は、新芽の鮮やかな色が草原いっぱいに広がり、草原が突然現れたように見える状態を「bursting meadow」と表現していると解釈して「萌え出ずる草原」などと翻訳するのが良いだろう。
「花が咲いていることを期待してはやる気持ちで草原に行ったが、まだ摘み取れる花はなく空しく手ぶらで帰った」という気持ちで、「back empty-handed」と冒頭に記述し、最後に「idle ikebana bowl」と記述し、「折角持参した花器を使わずじまいだった」と些か残念な気持ちでいることを詠んでいるものと思う。ちなみに、この場合の「idle」は「使用されないでいる」とか「暇である」という意味である。
したがって、このHAIKUの趣旨を生かすには、例えば次のような俳句に翻訳するとどうだろうか?
「萌ゆる原花摘み未だ花器空し」
しかし、上記の翻訳では原句の持つ英語の響きの良さ・味わいは表現しきれない。日本語が原句か英語が原句かを問わず、対訳の俳句・HAIKUのいずれもが名句だと感動する例はまれである。対訳の句を鑑賞する度に、所詮「HAIKUは英語で、俳句は日本語で、それぞれに楽しまざるを得ない」という思いを新たにしている。
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