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2019年5月

2019年5月30日 (木)

芭蕉300句:言葉の壁を破る英訳チャレンジ (9)

Basho’s Haiku in English  (10/300)

 

・風吹けば尾ぼそうなるや犬桜

 kazefukeba obosounaruya inuzakura

   

(A) Translation by L. P. Lovee

   when the wind blows,

   the tail dwindles_

   dog-cherry blossoms

    

(B) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

   as white blossoms blow

   away in the wind, the trees

   appear to dwindle

   

犬桜」の学名は「Prunus buergeriana」ですが、俳句用語に適しないので、原句の面白さを訳出するために (A)では文字通り「dog-cherry blossoms」と翻訳しました。

「尾」も「tail」と直訳しましたが、この俳句の情景や面白さが日本語の分からない外国人にも理解されるでしょうか、反応を知りたいものです。

B)の翻訳では情景は明瞭ですが、原句の面白さは全く理解されないでしょう。

   

 

芭蕉300句:言葉の壁を破る英訳チャレンジ (8)

Basho’s Haiku in English  (9/300)

   

・五月雨にかくれぬものや瀬田の橋

 Samidareni kakurenumonoya setanohashi

 

(A) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

    in the rain of may

    the only thing still in sight

    the bridge at seta

 

(B) Translation by L. P. Lovee

    in the rain of rainy season

    what remains in sight_

    the bridge at Seta

    

(A)の固有名詞は小文字表記ですが、(B)のように固有名詞は大文字表記にして句意を明瞭にするのがよいでしょう。「五月雨」は直訳しないで「rain of rainy season」と翻訳し、実態的句意を明瞭にしました。

  

芭蕉300句:言葉の壁を破る英訳チャレンジ (7)

Basho’s Haiku in English  (8/300)

 

・むめがかにのっと日の出る山路かな

 mumegakani nottohinoderu yamajikana

 

(A) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato.

  amid plumtree scent

   the sun suddenly came up

   on the mountain path

 

(B) Translation by L. P. Lovee

   amid plum blossoms scent

   suddenly emerges the sun_

   this mountain path

  

(C) Cited from an internet site  (jeffThompson/BashoHaiku.txt)

   With plum blossoms scent,

   this sudden sun emerges

   along a mountain trail

   

「むめがか」は「梅の香」のことです。山道を登っていると山の起伏や林で見えなかった太陽が不意に現れることがあります。そのような体験から、芭蕉は「のっと日の出る」と面白く表現したものと思いますが、「日の出」を詠んだのかもしれません。「のっと」には「祝詞」の意味もあります。いずれにせよ、この表現のニュアンスを英語にすることは不可能です。

なお、「山路かな」を「this mountain path」と翻訳して臨場感を出しましたが、この俳句は実際には連歌発句です。

  

  

2019年5月29日 (水)

芭蕉300句:言葉の壁を破る英訳チャレンジ (6)

Basho’s Haiku in English  (7/300)

   

・春なれや名もなき山の朝がすみ (7)

 harunareya namonakiyamano asagasumi

  

(A) Translation by L.P. Lovee

 the spring, now_

 on the unnamed mountain

 morning mists

   

(B) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

 the spring has arrived;

 on the hill that has no name

 there is morning mist

 

(C) Cited from an internet site (jeffThompson/BashoHaiku.txt) 

 Spring!

A nameless hill

in the haze.

  

(D) Cited from an internet site (jeffThompson / BashoHaiku.txt )  

  it is spring!

  a hill without a name

  in thin haze

  

Which one do you like best among the above translations?

   

2019年5月28日 (火)

芭蕉300句: 言葉の壁を破る英訳チャレンジ(5) <ほととぎ朱>

  

Basho’s Haiku in English   (6/300)

  

岩躑躅染る泪やほととぎ朱 

 (iwatsutsuji somuru namidaya hototogisu)

    

 (A) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

 

  rock azaleas

  so it seems, have been dyed red

  by the cuckoos’ tears

  

 

(B) Translation by L.P. Lovee

 the rock azalea

seems to be dyed with

tears of a cuckoo

  

(C) Translation by L.P. Lovee

tears of a cuckoo_

would be dyed with

the rock azaleas

           

ほととぎす」には「杜鵑」「時鳥」「子規」など色々の当て字があります。 一般的に「ほととぎす」の詩歌は「鳴き声」に焦点を当てますが、芭蕉は「ほととぎ朱」と書き、色に焦点を当て新鮮味を出したものでしょう。

「血の涙」という言葉もありますが、評伝・正岡子規(柴田宵曲著)によると、正岡子規は俳号「子規」の元になった五言絶句で「杜鵑が血を吐いて鳴く」という趣旨のことを詠んでいます。

  

芭蕉はこの「ほととぎ朱」の俳句を詠んだ時に、「客観写生」と「主観的表現」を意識していたのでしょうか?

 

実態的解釈はともかくとして、原句は(B)と(C) のように、主客転倒の二通り解釈が可能です。

 

高浜虚子は、「俳句への道」(青空文庫)において、

「客観写生ということに努めて居ると、その客観描写をとおして主観が浸透して出て来る。作者の主観は隠そうとしても隠すことが出来ないのであって客観写生の技倆が進むにつれて主観が頭をもたげて来る。」

「俳句は客観写生に始まり、中頃は主観との交錯が色々あって、それからまたしまいには客観描写に戻るという順序を履むのである。」

「感懐はどこまでも深く、どこまでも複雑であってよいのだが、それを現す事実はなるべく単純な、平明なものがよい。これが客観描写の極意である。」と述べています。

  

「俳句への道」を読み返して、 俳句の奥の深さ楽しさを再認識しました。  

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2019年5月27日 (月)

芭蕉300句:言葉の壁を破る英訳チャレンジ (3)

 Basho's Haiku in English  (3~4/300)

       

山路来て何やらゆかしすみれ草 (芭蕉)

  yamajikite naniyarayukashi sumiregusa  (Basho)

    

  (Translation by L.P. Lovee)

  coming through a mountain path,

  somehow graceful_

  violets

    

    

永き日を囀りたらぬ雲雀かな (芭蕉)

 nagakihio saezuritaranu hibarikana (Basho)

    

(A) Translation by L.P. Lovee 

 the so-called long-day

 insufficient to fully sing_

  skylarks

    

(B) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

 throughout a long day

 with never a pause at all

 a skylark in song

 

(A)の英訳では、「永き日」が春の季語(「日永」)のであることを明瞭にするために「so-called」を補足しています。(B)の英訳は誤訳(mistranslation)です。原句の句意と違うばかりでなく、雲雀は上空で一しきり鳴くと鳴き止み地上に降りますから「never a pause」は実態的にも誤り(wrong)です。

    

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2019年5月26日 (日)

芭蕉300句:言葉の壁を破る英訳チャレンジ (2)

Challenging Basho's haiku in English

   

・霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

kirishigure fujiominuhizo omoshiroki

  

 (A)

showery mists

hiding Mt. Fuji today_

amusing!

 

(B)

mist and gentle rain,

fuji can’t be seen today;

how fascinating!

 

A)は、「霧が時雨のように富士山を隠す様子が面白い」と芭蕉が詠んだものと解釈して英訳したものです。(B)はJohn White と Kemmyo Taira Sato両氏の共訳ですが、5-7-5音節に拘る弊害か、原句の句意・ニュアンスを表現しきれていないように思います。

貴方はどう思いますか?

  

  

2019年5月21日 (火)

俳句の文法《助詞「や」と「か」》

     

ほろほろと山吹ちるか瀧の音 

          (芭蕉

  

この俳句の解説をインターネットで検索すると、目についた限り全て「山吹が散っている情景を見て詠んだ俳句」として解説しています。

芭蕉は、山吹が散るのを見て詠んだのであれば、「ほろほろと山吹ちるや滝の音」と、「切れ字」ではなく「強調・詠嘆」の「や」を用いたのではないでしょうか? 

しかし、「山吹ちるか」と「か」(疑問を表す助詞)を用いています。

従って、滝の轟く音を聞いて、「山吹も滝の響きで散ることだろう」と瀧音の強さを詠嘆した俳句であると解釈すべきではないでしょうか? 

  

この句は、従来の俳諧が「滝・清流に山吹」など、絵画や和歌の題材として視覚的に親しまれていたものを音に焦点を当て新しい感覚で俳句に詠んだものでしょう。

  

芭蕉の俳句といえば、「古池や蛙飛びこむ水の音」が有名ですが、従来の俳諧では「清流の蛙(かじか)の鳴き声と山吹の取り合わせ」などが重んじられたのに対して、「古池と蛙の水音の取り合わせ」を詠んだ蕉風俳諧に通じるものがあると思います。

  

歳時記によると、「山吹」は春の季語、「滝」は夏の季語です。一般に、季語が二つあるのは良くないとされていますが、俳句の内容次第で効果があれば良いと思っています

  

寺田虎彦が「俳諧の本質的概論」で俳句における「てにをは」の重要性を強調しています。

  

我田引水ですが、助詞「や」の有無で高浜虚子の俳句「初空や大悪人虚子の頭上に」の句意も異なるとして新解釈を試みました。

  

興味があれば、「俳句談義(3):虚子の句「初空や」の新解釈《大悪人は誰か?》をご覧下さい。

 

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2019年5月17日 (金)

俳句の深読み: 田ステ女俳句ラリーに参加して

   

故郷を「まんぽ俳句」で元気に、未来に繋ごう! 

 

(2024.1.20 更新)

最近、生成AI(せいせいエイアイ)ChatGpt を利用した俳句自動作成アプリ「AI一茶くん」等がありますが、俳句は人が詠んでこそ意味があり、価値があると思います。

AI (エイアイ) には感情が無くて愛が有りませんが、人間には感性があり、愛があります。

俳句に感性を込めて自然や人の営みを詠むのが花鳥諷詠でしょう

  

AI (エイアイ) に勝る俳句や初戎

AI (エイアイ) に勝る投句を母の日ぞ

          (薫風士)   

上記俳句の助詞「や」と「を」の違いによる句意・ニュアンスの違いを考えて頂ければ幸いです。

   

(2019.5.17 の記事)

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2018年(令和元年)512日(母の日)に丹波市柏原町で開催された丹波市俳句協会主催の第23田ステ女俳句ラリーに参加し、5句投句したところ、次の一句が入選して「丹波悠遊の森 賞」を頂きました。 

   

  

風薫る我が青春の木の根橋

   

選者は宇田喜代子木割大雄坪内稔典山田佳乃の4氏でした。

     

(青色文字をクリックするとリンクされた解説記事などをご覧になれます。)

  

記念講演は小林孔氏の「ステ女の名句、深読み」でした。詳細は実行委員会が何れ報告されるでしょうから差し控えますが、「春をうるは実にめでたいよ若えびす」などステ女の俳句にも掛詞の面白さがあることが紹介されました。

筆者のブログ「俳句鑑賞《蕪村の俳句『薫風や』は面白い》において、「薫風やともしたてかねついつくしま」という蕪村の俳句は少なくとも4通りの解釈が可能であると書きましたが、同じ様にステ女の俳句の深読みをする先生がいることを知り、興味深く拝聴しました。

   

ちなみに、正岡子規は「ふたぬいて月のかけくむ新酒哉」という俳句を作っています。「月のかけ」は「酒樽の蓋が月の欠けたように開いたこと」を詠んだのでしょうが、「欠けた月の映っている酒樽から酌んだこと」を詠んだものかもしれません。

 

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