冒頭の写真は、花鳥2024年8月号(P54~55)「紙ふうせん」の記事ですが、薫風士がネット俳句交流の誘いをしています。
2番目の写真は、花鳥2023年11月号の「花鳥徒然」の記事(薫風士の投稿)です。
タップ拡大してご一読下さい。
高浜虚子は、自由にものが言えない戦時中の俳句では「客観写生」を唱道し、戦後自由にものが言えるようになると、「花鳥諷詠」を推奨したのだろうと推測していましたが、ウイキペディアには次の解説があり、両者の違いについて明確な定義は無いようです。
「花鳥諷詠」は1928年4月21日の「大阪毎日新聞」の講演会で提唱された。「花鳥」は季題の花鳥風月のことで、「諷詠」は調子を整えて詠う意味である[注 1]。
一般に「花鳥風月」といえば「自然諷詠」の意味になるが、虚子によれば「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(『虚子句集』)と「人事」も含めている。この「花鳥諷詠」は「ホトトギス」(俳誌)の理念であるが、それまで主張していた「客観写生」との関係は必ずしも明らかではない。虚子は終生この主張を変えることなく繰り返したが、理論的な展開は示さなかった。
(以下省略)
この写真は、人と自然の博物館のイベントのパンフレットと新館の軒からの眺めです。
「ひとはく」(兵庫県立人と自然の博物館)の新館の軒にある鎖樋が秋雨に奏でる音を聴きながら「まんぽ俳句」を口遊み、冒頭の写真を見ながら拙句を推敲していて、ふと客観写生と花鳥諷詠のことを考えました。
(A. 客観写生)
秋雨の旋律奏づ鎖樋
(B. 花鳥諷詠)
秋雨の旋律愛づや鎖樋
掲句について、「Aは客観写生であり、Bは花鳥諷詠である」と言えるのではないでしょうか?
客観写生をして、感じたことや思ったことを俳句に詠み込めば、それが花鳥諷詠だと思います。
貴方のお考えなど、何らかのコメントを頂けると幸いです。
ちなみに、花鳥諷詠についてWEB検索をすると、「新興俳句と花鳥諷詠論」(松井利彦著)という興味深い参考になる記事がありました。
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