初大師平和を祈る朝の空
我が祈り天に届くや冬日燦
恙無し曇間の冬日燦々と
ひとはくや子供連れ行く冬日和
冬日差す遠山望む駐車場
(薫風士)
冒頭の写真二つは、大寒の翌日(初大師)の朝の東の空ですが、
つかの間の日差しで、何だか、気まぐれな新政権を象徴しているような感じがして、恒久的な平和の実現を祈りました。
三番目の写真は、ひとはく近辺の冬日和のまんぽ道ですが、孫の誕生日を祝うかに、珍しく穏やかな一日でした。
ここをクリック(タップ)して、「365 まんぽ haiku (19) 《寒晴》」をご覧下さい。
四つ目の写真は、遠くの山に冬日の日差しが当たっているのが駐車場の傍の歩道並木の彼方に見えたので、高浜虚子の俳句「遠山に日の当たりたる枯野かな」を連想してスマホカメラで撮った写真です。
(タップ拡大すると、山に日当たりと雲の影があるのをご覧になれます。)
この写真は、カラー図解日本大歳時記(講談社)「冬の日」の解説ページです。
気象庁のHPによると、「冬日」は「最低気温が0℃未満の日」のことです。
俳誌のサロンの歳時記「冬日1」の冒頭には高浜虚子の下記の俳句が掲載されています。
旗のごとなびく冬日をふと見たり
この俳句を詠んだ時、高浜虚子は万葉集の和歌
「わだつみの豊旗雲に入り日さし今宵の月夜さやけかりこそ」
を意識していたかもしれませんが、その思いは何だったでしょうか?
虚子の「旗のごと」の句について、「六四三の俳諧覚書」には次の記載があります。
「多くの鑑賞者が弱々しい鈍色の冬日を連想します。ところが虚子は、大きな旗、大きな光の豊旗雲、光の溶鉱炉、と自解で述べています。冬の嵐の向こうに、赤く力強い太陽を見い出したのでしょう。昭和十三年、六十四歳。」
高浜虚子は、下記「冬日9」の「雲突と」の句のように、夕日ではなく真昼の空の雲が切れて見えた太陽から日章旗を連想し句にしたのかもしれません。
昭和12年には日中戦争が始まり、昭和13年には国家総動員法が施行されています。
平成最後の冬の夕日を眺めていると、平和を祈らずにはおれませんでした。
日章旗が新元号の下に平和国家のシンボルとして人々に愛でられる日が来ることを祈っています。
歳時記から「冬日」の俳句を気の向くままに抜粋・掲載させて頂きます。
(例句の詳細は青色文字の季語をクリックしてご覧下さい。)
「冬日2」
やはらかき餅の如くに冬日かな
(高浜虚子)
「冬日3」
高層の冬日をはじく猫の皿
(狩野朝子)
冬日射す母病床の誕生日
(徳田正樹)
句碑の文字冬日なぞつてゆきにけり
(稲畑廣太郎)
山門を染め上げてゆく冬日かな
(稲畑廣太郎)
交番の一輪挿や冬日さす
(山荘慶子)
愛犬の癒しのポーズ冬日向
(森下康子)
雲突と切れて射しくる冬日かな
(服部珠子)
花時計冬日を廻しゐたりけり
(箕輪カオル)
一の字の冬雲透かす今朝の日矢
(薫風士)
これは薫風士が掲句(まんぽ俳句)を詠んだ裏付けの写真です。
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