昨年6月に「宗教と科学の融合」というタイトルの「チュヌの便り」を書いたが、そのことを神戸の「昭和や」で11月にMさんやI君と飲んだ時に話題にしたらI君が素粒子理論のことを話してくれた。
そのことを思いだして、柳澤桂子著「生きて死ぬ智慧」のことを引き合いに出して、「何かエッセイを書いてくれないか」とI君にメールしたところ、その返信が面白い内容だったのでI君の了解を得て適宜抜粋して転載させて頂く。
青色の文字をクリックすると関連の解説記事などがご覧になれます。
(以下はI君のメールの抜粋)
般若心経の解説書は、5-6冊は読んだと思うのですが、それぞれに特有の解釈、説明がしてあって、特に『空即是色』の解釈はまちまちですね。それで良いのでしょう。
私は原子では考えていません。それをさらに分解した素粒子こそ根源だと思ってます。
大分頭を悩ませたことは事実ですが、『物事に執着することが…』などと言う心境にはいまだ達しておらず、物事に執着しなくなろうとstruggleする姿が良いと思いましょう。
エッセイに仕上げようとすれば、「一杯飲みながらの話」ではなくなってしまうので、このメールで済ませます。では、どうぞよろしく。
あれから、大兄にちゃんとした返事をしようと記憶をたどって見たり、本棚を探したり、新聞の切り抜き、Internetのプリントなど探してみたが、結局これがそうだと言う資料はないと言わざるをえない。
結論ともいえないが、「人間や世界を作ったのは神・仏なのか、あるいは物理現象なのか」についてかなり前から考えていて、その観点からいろいろ雑多なものを読んでいるうちに、「世界と人間を作って、あるルールで宇宙を制御しているのは神ではなく(神はいない)物理の法則ではないか」と思う様になった。
そこで、四国歩き遍路に出る前、般若心経の解説本を数種読んだ中に、人間を(あるいは物質を)極限まで分解して行くと素粒子に行きつく。これが「空」である、と言うのがあった。
一方で、素粒子そのものは光速とほぼ同じ速度で宇宙を飛び交っていて物質になりえない。素粒子そのものである。素粒子が物質になるのはなぜか、ということを物理学者は昔から研究していた。
そう言う研究者の一人、英国のHiggsが考えた理論があった。彼の名をとった『Higgs粒子』と言うものがあって、それと素粒子とが接触することで素粒子は重力を持ち、質量を得て速度が落ちる。
それに素粒子がさらに接触すると、それはさらに質量を得て物質になっていく(この辺小生の理解は荒いからご注意)。これが物質の発生である。人間も物質である。
この物質こそは般若心経に言う『色』である。
私が考えたのは(ほんとにそうかちょっと自信ないが)このHiggs粒子と素粒子の交わりが仏教の上では『因縁』と呼ばれるものではないか。
因縁によって我々は生成し、そして死んだあとは素粒子に帰り、また新たにHiggs粒子と合体し、次々にほかの素粒子と合体し新しい物質あるいは生物に生まれかわる。この生まれ替りを「輪廻」と言う。次の世では動物や植物などいろいろなものに転生する。この生まれ替りの連続を『輪廻』と言うのだと思う。
これは多分ヒンズー教の哲学に根差しているようにおもわれるが、小生が今思っているのはそういうことです。
自分で構築したとはとても思っていないが、これと言う種本も思いつかないので、2,3本を挙げておきます。上記のようなことをそのまま書いた本はないように思うけれど。
「仏教の源流ーインド」 長尾雅人著 中公文庫(これは良い本です)
「生物と無生物の間」 福岡伸一(分子生物学者)講談社現代新書
この本は良い。この件とは関係なく一読をお勧めする。この学者を私は非常に尊敬している。
ちょっと前後錯綜しますが、上記のような宇宙論を日本で最初に唱えたのは空海ですね。
先日2月7日の日経新聞に仏文学者・竹内信夫さんが語られた話が載っていたが、その内で私が目をひかれた部分を引用します。
「空海の思想の中核には『いのち』がある。生物すべての、あるいは宇宙全体と言う一つの大きな命があって、それぞれの人や動物、植物がそれを分かち合い、分有をしていると言う考え方です。一つひとつの命は授かりものだから、大事にしなくてはいけない。他の人や生き物の命も当然、大切にしなくてはいけない。殺伐とした現代にも通じる考え方だと思う」
私は、自分が宇宙に存在するあらゆるもの、この惑星に存在するあらゆるもと、同じように生成してきて、お互いに存在しているとおもうと、そういうものがなんとなくいとおしいものに思われてきています。
最近私は「色color」に魅かれるようになりました。花、草木、木々、山、川、雲、空がみんな美しくてたまらないようになってきました。友人にも同じことを言うのがいて、これは年齢の所為だろうかと思いますが、そう感じることは極めて快適ですし、気持ちを暖かく包んでくれます。
この感じは俳句を詠まれる大兄はずっと前から体験していることかと思いますので、釈迦に説法かも知れませんね。
春が待たれますね。では、また。
(以上がI君のメールの抜粋)
I君のメールの最後の記述は高浜虚子の昭和29年の著書「俳句への道」の冒頭の言葉<私等は、日本という国ほど
小生は「高浜虚子は『色即是空』の宇宙観を持って花鳥諷詠を俳句にしたのではないか」と思い、「春の山屍を埋めて空しかり」を辞世の句として新解釈をブログに書いたが、「深は新なり」と言った虚子の俳句は謎解きのような興味を抱かせる。折に触れて虚子の俳句を小生なり解釈して俳句談義にとりあげたいと思っている。