俳句談義(1)虚子辞世句の解釈

      

虚子の辞世の句とも言われる「春の山(かばね)を埋めて空しかり」にある「空しかり」は単なる「むなしかり」ではない。虚子は「空然り(くうしかり)」ということを念頭においてこの句を詠んだのではないか?

    

この句について、小林恭二の「この俳句がスゴい!」(角川学芸出版)には次の記述がある。

「虚子の絶唱です。この句を詠んで二日後に亡くなりました。自分の死を予感してこの作品を詠んだという説もありますが、辞世の句といった気負いは感じられません。晩年の虚子の句は、膂力(りょりょく)的には衰えているのですが、それとはまた別種の古拙な味わいがあり、平安期の仏像を見るような趣があります。

「春の山屍を埋めて」はイメージ的にはどきりとさせられますが、さしたる実質があるとは思えない。どんな場所でも長い年月の間には遺体のひとつやふたつは埋められているはずであり、とりたてていうほどのことはない。

むしろ、この句の眼目は「空しかり」でしょう。二日後に死を迎える虚子の目にはすべてが空しく見えていたと思います。ちなみにこの空しさは、青年や敗者の感じる、惨めったらしい「虚しさ」ではありません。やるべきことはすべてやりとげた男のみが感じることができる清々とした空しさです。なんとなく素敵な境地のようにも思えますが、これだけはその齢になってみなければわからないことなのでしょうね。」

        

上記の句評を読んだ時に、チュヌの主人は「掲句の屍とは誰の屍なのか?「むなしかり」とは誰が空しく思ったのか?」など、この句の下五を「むなしかり」と読んで釈然としなかったのですが、偶々数日前に「生きて死ぬ智慧」など「般若心経」に関する本を読んでいたので、ふと次のように思い付いたのです。

虚子は日頃から「般若心経」の「色即是空」を潜在意識にして「花鳥諷詠」を句にしていたに違いない。掲句の「空しかり」は「むなしかり」ではなく、「くうしかり(空然り)」と読むべきではないか?「屍」とは虚子の「屍」のことではないか?

虚子の句に「春惜しむ輪廻の月日窓にあり」がある。「『凡てのものの亡びて行く姿を見よう』私はそんな事を考へてぢっと我慢して其子供の死を待受けてゐたのである」と虚子は四女の死に際して記述しているが、「色即是空」を念頭においていたのではないか?

          

因みに、坊城俊樹さんは「独り句の推敲をして遅き日を」を虚子の辞世の句としてもよいとしている(「高浜虚子の100句を読む」参照)。この淡々とした句は句仏17回忌(3月31日)に作られている。虚子の句には、「短夜や夢も現も同じこと」や「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」などもある。

辞世の句がどれかはともかく、虚子の命日釈迦の生誕日とされる「4月8日」に当たることも不思議な縁を感じる。

(安原晃氏の「花鳥諷詠のこころ」、深見けん二と白鳥元雄の対談名畑直日児の記事「明易や」参照)

          

掲句について次のアカネの俳句談義で仲間の意見を聞こうと思っているが、このブログを読んだ方のお考え・コメントが頂けると嬉しいですね。

    

(浅学非才を顧みず愚考した新説をブログに記載させて頂きましたが、「俳句には読む人の考えやその心持によって如何様にでも解釈できる曖昧さや広がりがあり、解釈の一つである」と、お許し頂けるものと存じます。青色文字をクリックするとリンクしたサイトの関連の解説記事や写真をご覧になれます。是非ご覧下さい。)

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