コメント:

高浜虚子は「年を以て巨人としたり歩み去る」という俳句を作っています。
「高浜虚子の俳句と『護憲運動』のことなど」
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2017/10/post-06d2.html
をご覧下さい。

原句に近い納得できる英訳は次の通りです。
last year this year_
as if
a stick pierces

宗内敦 様

「『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』(額田王)という万葉の恋歌をどう英訳したらよいか、ふと考えています。」とのこと、
「紫野」とは何か興味が湧きインターネットで検索したところ、
世界大百科事典 第2版の解説として「歌枕。現在の京都市北区紫野で,船岡山,大徳寺を中心とする地域。平安京北郊で宮廷の遊猟地であった。」とあります。
また、「行き」は「行幸」の意味だろうと思います。
したがって、「紫草の御料地をあちらへ行きこちらへ行きしながら、」という灰谷寛司氏の解釈は不適切でしょう。
「遊猟地や御料地にお出かけになり」と解釈して英訳するのが良いと思います。
額田王の恋歌の英訳に上記の解釈が参考になれば幸いです。
「チュヌの便り」への暖かい激励のコメント有難うございました。
今後ともよろしくお願いします。

 私の文章について、本ブログ欄でのご紹介、まことにありがとうございます。俳句の解釈から始まる、貴ブログ欄の充実には、目を見張ります。先日、恐縮ながら、私の頁からリンクを貼らせて頂きました。互いのご訪問者が両サイト間を往来して下さることを願っています。
 それにしても、「去年今年貫く棒の如きもの」の英訳に挑戦とはものすごいですね。私も今、ライフワークたる「カラー・ピラミッド・テスト入門」の英訳を何とかしたいと心配っており、その序章の中で、色と感情・情緒との関連にかかわって引用している「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王)という万葉の恋歌をどう英訳したらよいか、ふと考えています。和歌(短歌)の場合は情景がそのまま絵になってそのまま外国語化すれば何とかなるはずですが、
 例えば、灰谷寛司氏はこの歌を
「紫草の御料地をあちらへ行きこちらへ行きしながら、あなたが袖を振っておられるのを、野守は 見ていないでしょうか」と現代語訳してから、
 You ride back and forth through the Imperial fields of gromwell plants:
Isn't the groundkeeper watching your waving of the sleeves at me?
 と訳しています(もし、無事英訳本が出版できたら、灰谷寛司氏の英訳を引用させてもらおうかと、考えています)。これをリービ英雄氏はまずは
「茜色の あの紫草の野を行き その御料地の野を歩いてるとき 野の番人は見ていないかしら ああ あなたそんなに袖を振ふらないでよ」としてから英訳しているようです。
 和歌(短歌)の場合は、どちらにしても、歌の本質をそう大きくは離れないとしても、俳句の場合は、詩(うた)の本質が言葉で表現されていないところにあるので、これは至難の業。特に抽象化された句において然りですね。
 そういう意味で、「去年今年貫く棒の如きもの」についての考察の流れ、  
「俳句の新解釈・鑑賞 <去年今年貫く棒の如きもの(高浜虚子)>」において考察したように、主語(主体)は省略されている、すなわち、「俳句に対する虚子の信念」が省略されている、「去年今年」は客体である、と解釈する場合は次のように意訳できます。
   :
   :  
「去年今年」は文字通り英訳すると「last year this year」ですが、新年の季語としては不適切です。「去年今年」は高浜虚子が季語として確立したと言われていますから、日本語のまま「kozokotoshi」で使うのがよいでしょう。」
 には、大きく肯かされました。
 「チュヌの便り」の益々のご発展を祈ります。
fullmoon

「虚子の俳句『去年今年貫く棒の如きもの』の棒とは何か?」で
リンクさせて頂いた宗内氏のブログのURLは変更されています。
下記のURLをクリックすれば、宗内敦氏のエッセイ
「人は何故書くのか」・「第二芸術論と高浜虚子」
がご覧になれます。
http://muneuchi.art.coocan.jp/essay/why%20we%20write/writig-index.htm
なお、宗内氏のブログサイトは
http://muneuchi.art.coocan.jp/
です。
「二言、三言、世迷い言」は興味ある著書です。
後日何らかの形で「チュヌの便り」の記事にさせて頂きたいと思っています。

日本経済新聞12月6日付「春秋」に
「歌人・斎藤茂吉は感情の人である。」という書き出しで、文末は
「昔のひとは気がつくと、『排外行進曲』に歩調を合わせていた。
見くびっていると、いまの世界も轍(てつ)をふむ。」
という興味ある記事があった。
斎藤茂吉はミュンヘンでヒトラーのクーデター未遂事件に遭ったとのことで、
「をりをりに群衆のこゑか遠ひびき戒厳令の街はくらしも」
という歌を詠んでいる。

戦争を知っている世代の著名な方々の訃報をよく目にするようになりました。
最近のニュースでは水木しげるさんや野坂昭如さんの訃報です。

雨宮処凛がゆく!
「水木しげるさんの死〜なぜ「戦争反対とは決して言いません」だったのか。の巻」
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/24461/
  
東京新聞の記事
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015121002000269.html

政治談議
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/essay-on-politics/

などをご覧下さい。

無料翻訳ソフトの開発が進んでいます。
一つ一つの単語の正しい発音をしてくれるのは素晴らしいが、
まだ英文として使える状態ではない。
Google検索で、
「去年今年貫く棒の如きもの 英訳」
と入力したところ、瞬時に次の英訳が表示された。
「Things such as bars last year to penetrate this year」
別のソフトでは次の英訳が表示された。
「Like rods through the last year.」
まだ、チュヌの主人も翻訳家として活躍できる余地は十分ありますね。

俳句と川柳の違いがよく話題になりますが、チュヌの主人は
「季語・季題」があれば「俳句」、「季語・季題」がなければ「川柳」
と、割り切ればよいと考えています。
両者の違いを主人の駄句で例示します。
・平和への思ひ夫夫(それぞれ)去年今年
・平和への思い伝えよ川柳で
  
「師走」の俳句を集めました。お暇があれば、
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/12/post-d12e.html
をクリックして、ご覧下さい。
良いお年をお迎えください。
  

高浜虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」
にインスピレーションを得てロクリアン正岡さんが作曲した
「時を貫く“南無阿弥陀仏”」を
YouTubeで仏像や世相の写真などを見ながらお聴きになれます。
興味ある方は
https://www.youtube.com/watch?v=qUIm4lffvTA
をクリックしてご覧下さい。

夏目漱石の「草枕」を読み返すと、次の記述が印象に残った。

「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするが故ゆえに尊たっとい。」


高浜虚子も同じ思いで俳句を作り、俳句を広めることに腐心したのだろう。

ご意見・コメントなど頂けると幸甚です。
(e-mail) aiqtrans@hi3.enjoy.ne.jp

高浜虚子の掲句「去年今年」に対照的な感じのする俳諧
「大晦日定なき世の定かな」
を井原西鶴が作っていることを知った。
(「ウイキペディア」の「井原西鶴」参照)

ロクリアン正岡様
コメント有難うございました。
「現音秋の音楽展2015」のご成功をお祈り申し上げます。

 はじめて読ませていただきました。
やはり、この句は大物なのですね。

私は、作曲の師である松村禎三が虚子の次男の池内友次郎の弟子であり、雑誌に掲載されたこの句について賞賛の言葉を綴った文章を読まされることでこの句の存在を知ったものです。それはもう、今から15年は前のことだったでしょうか。
その間、この句についての人々の感想、評価などに接することないまま、6年ほど前に、これについての作曲を開始、三割程度のところで筆をおき、今年になって残りを書き終え、11月18日の発表の準備をしているところ。
その曲名は「時を貫く“南無阿弥陀仏”」というものです。
はじめは「南無阿弥陀仏行進曲」にしようかと思っていたのですが・・・・。
 曲はこの句そのものを表したものと思ってくださって結構です。
というのは、作曲後、最近になってものした同句に関する長大な1節を含む3万文字の文章(後述)を書くことにより、この作曲が如何にこの句への強い共感と拘りと愛憎の下に遂行されていたかが分かったからです。
 「時が貫く」のではなく、「何かが時を貫いているのだ!」との愚直とも思われそうな、それこそ、こ・だ・わ・り、が私にはもともと在り、「棒」とは「永遠」の事に違いないという確信を強めるに至りました。
 他方、「南無阿弥陀仏」とは「仏と一体になろう」あるいは「仏と一体である」という志向そのもの、信念そのものであり、これは「永遠」概念に丸くおさまる、というところからタイトルが決まった次第。
 なお、同句に関する徹底的な分析と意味づけは、インターネットで次を検索して頂ければ、出てまいります。
現音 秋の音楽展 2015
そして、アンデパンダン展第一夜 を開けて、最後にあります。
全体としては3万文字ですが、同句に関するところだけでも一万時近くあります。
偉大にして、極めてトリッキーなこの句は、日本人が苦手とする「芸術」概念の核みたいなものが、そのまんま入っているような気が私にはして、どうしても長い文章にならざるを得なかったのです。
ところが、正岡子規が清≒虚という認識のもとに「池内清」あるいは「高浜清」君でしょうか、彼に「虚子」と命名したということを先ほどネット上で知らされ、3万文字の拙稿は、まさに「清≒虚」という簡潔なタイトルが相応しかったとの感慨を持つに至っております。
なお、日本現代音楽協会のそのホームページ(ウェブサイト)には、同楽曲発表のコンサート情報も載っております。
 自分自身では、まさに同句がそのまま音楽になったような感じがしており、皆様のような方々にこそお聴きいただければ、それにまさる喜びはありません。
もっとも大変なご批判、あるいはお叱りの言葉を賜ることに成るやもしれませんが。
ご招待しますので、メールでお知らせ頂ければ会場に切符などご用意いたします。
11月18日、新宿初台のオペラシティリサイタルホールです。
 なお、サンプル音源は(もちろん優秀な演奏家の好演には叶いませんが)ユーチューブでお聴きいただけます。
メールアドレス:locrian@saturn.dti.ne.jp


 

高浜虚子の掲句は俳句談議(1)で述べた虚子の辞世句
「春の山屍を埋めて空しかり」と対照的な内容であり、
対比すると面白い。
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-4121.html
をご覧下さい。

このブログをチュヌの主人が書き終えてから、インターネットを「こぞことし」など様々なキーワードで検索したところ、虚子の「去年今年」の句について「知音」 というブログ記事 http://meiku.exblog.jp/424098 があった。
「貫く棒」の比喩の解釈が同じであることに意を強くした。