夏目漱石の「草枕」を読み返すと、次の記述が印象に残った。 「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするが故ゆえに尊たっとい。」 高浜虚子も同じ思いで俳句を作り、俳句を広めることに腐心したのだろう。
はじめて読ませていただきました。 やはり、この句は大物なのですね。 私は、作曲の師である松村禎三が虚子の次男の池内友次郎の弟子であり、雑誌に掲載されたこの句について賞賛の言葉を綴った文章を読まされることでこの句の存在を知ったものです。それはもう、今から15年は前のことだったでしょうか。 その間、この句についての人々の感想、評価などに接することないまま、6年ほど前に、これについての作曲を開始、三割程度のところで筆をおき、今年になって残りを書き終え、11月18日の発表の準備をしているところ。 その曲名は「時を貫く“南無阿弥陀仏”」というものです。 はじめは「南無阿弥陀仏行進曲」にしようかと思っていたのですが・・・・。 曲はこの句そのものを表したものと思ってくださって結構です。 というのは、作曲後、最近になってものした同句に関する長大な1節を含む3万文字の文章(後述)を書くことにより、この作曲が如何にこの句への強い共感と拘りと愛憎の下に遂行されていたかが分かったからです。 「時が貫く」のではなく、「何かが時を貫いているのだ!」との愚直とも思われそうな、それこそ、こ・だ・わ・り、が私にはもともと在り、「棒」とは「永遠」の事に違いないという確信を強めるに至りました。 他方、「南無阿弥陀仏」とは「仏と一体になろう」あるいは「仏と一体である」という志向そのもの、信念そのものであり、これは「永遠」概念に丸くおさまる、というところからタイトルが決まった次第。 なお、同句に関する徹底的な分析と意味づけは、インターネットで次を検索して頂ければ、出てまいります。 現音 秋の音楽展 2015 そして、アンデパンダン展第一夜 を開けて、最後にあります。 全体としては3万文字ですが、同句に関するところだけでも一万時近くあります。 偉大にして、極めてトリッキーなこの句は、日本人が苦手とする「芸術」概念の核みたいなものが、そのまんま入っているような気が私にはして、どうしても長い文章にならざるを得なかったのです。 ところが、正岡子規が清≒虚という認識のもとに「池内清」あるいは「高浜清」君でしょうか、彼に「虚子」と命名したということを先ほどネット上で知らされ、3万文字の拙稿は、まさに「清≒虚」という簡潔なタイトルが相応しかったとの感慨を持つに至っております。 なお、日本現代音楽協会のそのホームページ(ウェブサイト)には、同楽曲発表のコンサート情報も載っております。 自分自身では、まさに同句がそのまま音楽になったような感じがしており、皆様のような方々にこそお聴きいただければ、それにまさる喜びはありません。 もっとも大変なご批判、あるいはお叱りの言葉を賜ることに成るやもしれませんが。 ご招待しますので、メールでお知らせ頂ければ会場に切符などご用意いたします。 11月18日、新宿初台のオペラシティリサイタルホールです。 なお、サンプル音源は(もちろん優秀な演奏家の好演には叶いませんが)ユーチューブでお聴きいただけます。 メールアドレス:locrian@saturn.dti.ne.jp
高浜虚子の掲句は俳句談議(1)で述べた虚子の辞世句 「春の山屍を埋めて空しかり」と対照的な内容であり、 対比すると面白い。 http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-4121.html をご覧下さい。
このブログをチュヌの主人が書き終えてから、インターネットを「こぞことし」など様々なキーワードで検索したところ、虚子の「去年今年」の句について「知音」 というブログ記事 http://meiku.exblog.jp/424098 があった。 「貫く棒」の比喩の解釈が同じであることに意を強くした。
コメント:虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」の棒とは何か?
夏目漱石の「草枕」を読み返すと、次の記述が印象に残った。
「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするが故ゆえに尊たっとい。」
高浜虚子も同じ思いで俳句を作り、俳句を広めることに腐心したのだろう。
高浜虚子の掲句「去年今年」に対照的な感じのする俳諧
「大晦日定なき世の定かな」
を井原西鶴が作っていることを知った。
(「ウイキペディア」の「井原西鶴」参照)
ロクリアン正岡様
コメント有難うございました。
「現音秋の音楽展2015」のご成功をお祈り申し上げます。
はじめて読ませていただきました。
やはり、この句は大物なのですね。
私は、作曲の師である松村禎三が虚子の次男の池内友次郎の弟子であり、雑誌に掲載されたこの句について賞賛の言葉を綴った文章を読まされることでこの句の存在を知ったものです。それはもう、今から15年は前のことだったでしょうか。
その間、この句についての人々の感想、評価などに接することないまま、6年ほど前に、これについての作曲を開始、三割程度のところで筆をおき、今年になって残りを書き終え、11月18日の発表の準備をしているところ。
その曲名は「時を貫く“南無阿弥陀仏”」というものです。
はじめは「南無阿弥陀仏行進曲」にしようかと思っていたのですが・・・・。
曲はこの句そのものを表したものと思ってくださって結構です。
というのは、作曲後、最近になってものした同句に関する長大な1節を含む3万文字の文章(後述)を書くことにより、この作曲が如何にこの句への強い共感と拘りと愛憎の下に遂行されていたかが分かったからです。
「時が貫く」のではなく、「何かが時を貫いているのだ!」との愚直とも思われそうな、それこそ、こ・だ・わ・り、が私にはもともと在り、「棒」とは「永遠」の事に違いないという確信を強めるに至りました。
他方、「南無阿弥陀仏」とは「仏と一体になろう」あるいは「仏と一体である」という志向そのもの、信念そのものであり、これは「永遠」概念に丸くおさまる、というところからタイトルが決まった次第。
なお、同句に関する徹底的な分析と意味づけは、インターネットで次を検索して頂ければ、出てまいります。
現音 秋の音楽展 2015
そして、アンデパンダン展第一夜 を開けて、最後にあります。
全体としては3万文字ですが、同句に関するところだけでも一万時近くあります。
偉大にして、極めてトリッキーなこの句は、日本人が苦手とする「芸術」概念の核みたいなものが、そのまんま入っているような気が私にはして、どうしても長い文章にならざるを得なかったのです。
ところが、正岡子規が清≒虚という認識のもとに「池内清」あるいは「高浜清」君でしょうか、彼に「虚子」と命名したということを先ほどネット上で知らされ、3万文字の拙稿は、まさに「清≒虚」という簡潔なタイトルが相応しかったとの感慨を持つに至っております。
なお、日本現代音楽協会のそのホームページ(ウェブサイト)には、同楽曲発表のコンサート情報も載っております。
自分自身では、まさに同句がそのまま音楽になったような感じがしており、皆様のような方々にこそお聴きいただければ、それにまさる喜びはありません。
もっとも大変なご批判、あるいはお叱りの言葉を賜ることに成るやもしれませんが。
ご招待しますので、メールでお知らせ頂ければ会場に切符などご用意いたします。
11月18日、新宿初台のオペラシティリサイタルホールです。
なお、サンプル音源は(もちろん優秀な演奏家の好演には叶いませんが)ユーチューブでお聴きいただけます。
メールアドレス:locrian@saturn.dti.ne.jp
高浜虚子の掲句は俳句談議(1)で述べた虚子の辞世句
「春の山屍を埋めて空しかり」と対照的な内容であり、
対比すると面白い。
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-4121.html
をご覧下さい。
このブログをチュヌの主人が書き終えてから、インターネットを「こぞことし」など様々なキーワードで検索したところ、虚子の「去年今年」の句について「知音」 というブログ記事 http://meiku.exblog.jp/424098 があった。
「貫く棒」の比喩の解釈が同じであることに意を強くした。