俳句談義(2):虚子辞世句「春の山」の新解釈について

     

虚子が亡くなる二日前に詠んだ句「春の山(かばね)を埋めて空しかり」について、「これは辞世の句であり、『空しかり』は『むなしかり』ではなく『くうしかり』と読むべきではないか?」と、俳句談義(1)で新解釈を提唱したが、虚子の墓所鎌倉五山の第三位である「寿福寺」にあることを知り、なおさらその考えに確信を抱いている。「春の山」は単なる山を意味するのではなく、鎌倉五山や山寺に思いを馳せ、「」とは埋葬されるであろう自分も含めて諸々の死者を指しているのではないか? 

春風や闘志いだきて丘に立つ」や「去年今年貫く棒の如きもの」などの俳句を作り、俳句界に偉大な功績を遺した稀有の俳人が自分の死を予期して「むなしかり」と詠んだとは思われない。

子規は「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」と自分の死を達観してユーモラスに詠んでいるが、虚子は「とは真にこのことだ」と自分の死を達観して、「般若心経の『色即是空』とはこんなものだよ」と虚子の悟りの境地を詠んだものと愚考している。しかし、碧梧桐の「君が絶筆」などを読むと、子規の掲句は「ユーモラス」という表現が当たらない悲壮な客観写生であることがわかる。

    

(「俳句には読む人の考えやその心持によって如何様にでも解釈できる曖昧さや広がりがあり、解釈の一つである」と、新解釈を掲載しました。青色文字をクリックするとリンクしたサイトの関連の解説記事や写真をご覧になれます。是非ご覧下さい。)

   

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