高浜虚子が小諸山廬にて詠んだ掲句について山本健吉は「定本 現代俳句」において次のように述べている(抜粋)。
昭和22年10月14日作。小諸を引き上げる前の作品で、「長野俳人別れの為に大挙し来る」と注記がある。
「昼の星」とは太白星(火星)である。山の秋気が澄んで、まだ日の高いうちから、爛々と大きく、赤く燃えるような色を放って輝いている。地には「菌」がにょっこりと頭をもたげている。・・・(省略)・・・空と大地と、二つの異様な色彩のものを対置し、抽象的な装飾画のように、ただその二つのものが並べ置かれているだけである。(以下省略)」
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坊城俊樹氏の「高浜虚子の100句を読む」には次の句評がある。
「・・・(省略)・・・昭和二十二年四月一日には愛子の死が訪れ、老人虚子はそろそろ晩年の節目となる俳句にさしかかっていたと思われる。
しかし、この掲句なのである。これが、七十歳を過ぎた当時の老人の句であるとは誰も思わない。ある意味で虚子の代表句であるが、伝統派の俳人たちはこの句の謎を追うことを嫌う。句意もさんざん人たちが議論を繰り返してきた。昼の星とは宵の金星であるとか、井戸に映った金星とか、妄想的に現出した星など、さまざま。
筆者としては、これは虚子の遊びだと思っている。肉眼では金星が暁以外で見えるはずはないとか、金星は小諸と限定せずに鎌倉の夕刻の回想とか諸説の理由ももっともであるが、なんとなく庭の菌を見ていたらそんな気がしたのであろう。昼の星を太陽としても天文学的には間違いではない。しかし、それはそれとしても太陽にもそんな気がしたのである。
いわば、虚子としての集大成の写実の次に見えてくる、虚子の宇宙の片鱗なのである。」
上記のように、山本健吉は「抽象的な装飾画のように、ただその二つのものが並べ置かれているだけである」と言い、坊城俊樹氏は「虚子の宇宙の片鱗」とか「虚子の遊びだと思っている」と言っている。
太陽(恒星)は星の一つである。
覗いた井戸か池に太陽が映って輝いており、キノコがどこかに生えているのを見て作った句かも知れない。
しかし、唯それだけなら虚子は何故に「長野俳人別れの為に大挙し来る」という注記を付けたのだろうか?
虚子は「深は新なり」といっている。(高浜虚子記念館のHP「虚子の思想」参照)
また、「新・俳人名言集」(復本一郎著 春秋社発行)によると、虚子は「客観描写を透して主観が浸透して出て来る。」と言っている。
だから、具体的なものを抽象的に表現している俳句の場合は何かを比喩的に詠んでいる可能性がある。「長野俳人別れの為に大挙し来る」という注記を考慮すると比喩の可能性が高い。
もし、「長野の俳人たちとのこの別れは今生の別れとなるかもしれない」と虚子が考えていたとすれば、辞世の句として作ったのかも知れない。
芭蕉は「平生即ち辞世なり。」といひ、
また、
「きのふの発句はけふの辞世、けふの発句はあすの辞世、わが生涯いひ捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし。」
と言っている。(「新・俳人名言集」)
虚子もそういう気持ちで俳句を作っていただろう。
そうだとすれば、虚子は、「星」を死後の自分に例え、後に残る俳人や次々と新たに生まれてくる俳人を「菌」に例えていると解釈できるのではないか?
坊城俊樹氏は「虚子の遊びだと思っている」と言っているが、虚子は読者が句の解釈をどのようにするのか、誤解があればそれはそれとして楽しむ余裕を持っていたようである。
虚子は、「虚子一人銀河と共に西へ行く」という句も作っている。虚子の俳句には謎をかけられているような興味が湧く。
「選は創作なり」という虚子の言葉にあやかって、「解釈も創作なり」と誤解を恐れず私見を述べているが、星になった虚子は「ほう、そういう解釈もできますか。」と、面白がってくれているかもしれない。
「俳句は存問の詩である」と虚子は言っている。次回は試みに別の解釈について書きたい。
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