「爛々と昼の星見え菌生え」について、坊城俊樹さんは「虚子の宇宙の片鱗」とか「虚子の遊び」などと言っているが(「俳句談義(6)」参照)、この句には「謎解き」のような面白さがある。
稲畑汀子さんは「虚子百句」において次のように言っている(抜粋)。
「この句ほど不思議な力で読む人を惹きつけながら、解釈を施そうとすると困難を極める句も珍しいだろう。
・・・(省略)・・・
虚子が3年余りに及び滞在した小諸を引き揚げる直前のこの日、長野の俳人達が大挙して山ほどの松茸を持参して別れを言いにやってきたのである。句会に出席していた村松紅花の証言によれば、句会の席上、長野の俳人の一人が、『深い井戸を覗いた時、昼であるのに底に溜まっている水に星が映り、途中の石積みの石の間に菌が生えていた』という体験を話したという(注:村松紅花は村松友次の俳号)。
・・・(省略)・・・
虚子は一俳人の話に感興を動かされて、いや感興などという生易しいものではなく、インスピレーションを得て一気に頭の中で壮大な宇宙を作り上げたのではないだろうか。
・・・(省略)・・・
この句は信濃の国に対する虚子の万感を込めた別れの歌であり、最高の信濃の国の誉め歌なのである。(以下省略)
掲句についての山本健吉の「定本 現代俳句」における句評を「俳句談義(6)」で抜粋引用したが、その句評の最後に次の記述がある。
「・・・(省略)・・・連句の連用形止めは、たいてい『見えて』『生えて』というふうに、『て』止めである。この句の感じは、やはり朔太郎の用法に近い効果を見せ、何か不気味な、感覚的な戦慄を生み出している。老境の虚子の、感覚的な若さを感じさせる。」
以上のように、この句に対する解釈は評者によって様々であり、「謎解き」のような面白さがある。
写生句であれば、「切れ」の効果を出すために「終止形」にするのが普通であるが、「爛々と昼の星見え菌生え」と、「連用形止め」である。この句は写生句ではない。「昼間は見えない星も夜には爛々とするという宇宙の現象」を捉え、「森羅万象」を抽象的・主観的な比喩で表現しているのではないか?
虚子は花鳥諷詠を広く捉え、このように俳句を比喩的に作ることも花鳥諷詠であると範を垂れているのではないか?
この句には、「長野俳人別れの為に大挙し来る。小諸山廬」の詞書がある。インターネットで長野県出身の俳人を調べたところ、河合曾良、小林一茶、小澤實、矢島渚男など15名がリストされていた。
星は曾良や一茶など鬼籍の俳人を指し、「菌」は小澤實や矢島渚男など現存の俳人を指していると解釈してもよいのではないか?
すなわち、「長野の俳人の活躍を讃え、花鳥諷詠の俳句が将来も隆盛することを信じ・喜んでいる句である」と解釈してはどうか?
虚子は宇宙のどこかで、「ほう、そんな解釈もできますか。」と、ニッコリしているのではないか?
遊び心のついでに、この句の後に連句として「花鳥諷詠ますます盛ん」と付け加えたら、虚子は何というだろうか?
先達と彼岸で俳句談義が出来ると面白いだろうが、元気な限り「露の世」の俳句談義に興じたい。
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