虚子の「去年今年」の句:
・去年今年貫く棒の如きもの
・去年今年一時か半か一つ打つ
について、岸本尚毅氏は「俳句の力学」(ウエッブ発行)において次のように述べている(抜粋)。
「『棒の如きもの』は時間というものの本質を普遍化し、抽象的に捉えました。『貫く棒の如き』とは『世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない』という『伝道の書』の言葉を思わせます。この句はいわば『色即是空』の眼でものを見た句です。
一方『一時か半か一つ打つ』は思い切りディーテールに徹しました。この句は時計で知る時間の覚束なさを思わせます。この句のディーテールへのこだわりは『空即是色』的とも思えます。
『貫く棒』のようにディーテールを捨象し、単純化・抽象化を極める作風は俳句の大きな魅力です。
その一方で『一時か半か』のように、個々のディーテールに無限の可能性を求める行き方も俳句の豊饒を示すものといえましょう。(・・・以下省略・・・)」(「俳句の可能性」の項)
また、「季題という秩序」の項で次のように述べている。
「高浜虚子は言います。『四季の循環に意を注ぎ、宇宙の現象に心を留むることは俳句の道である。併し或ひは(中略)それによって安らかに人生の幕を閉づる事が出来る、所謂、菩提心を得る捷径になるのかも知れぬ』(『虚子俳話』)と。」
更に、高浜虚子の「俳句への道」から次のとおり引用して、岸本さんは「私は虚子の言葉を金科玉条のように信奉しています。」と言っている。(「写生について」の項)
「写生といふことは解釈の仕様によっては、どこまでも広いことになり、どこまでも深いことになる。それを狭く解して攻撃する人がある。それ等の人は別に恐ろしいとは思はない。広く解し深く解し、鋭意それによって新しい境地を拓いて行く人には、なんだか恐ろしいやうな尊敬の念が起こる」
「俳句への道」における虚子の記述や岸本氏の上記句評を考慮すると、「チュヌの便り」の「俳句談義(1)」で述べた虚子の辞世句「春の山屍を埋めて空しかり」の新解釈や「俳句談義(3)」における虚子の句「初空や大悪人虚子の頭上に」の新解釈の裏付けになるのではないかと、意を強くした。
虚子の句の解釈をすることはチャレンジングで面白く、嵌りそうである。
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