12月9日は漱石忌です。
昨年の俳句会は通信句会でしたが、今年は新型コロナウイルスの感染拡大が一応収束し、自粛要請が解除されて集合句会が出来ました。
2016年は夏目漱石没後100年にあたり、夏目漱石の生前の姿を再現したアンドロイドがNHKテレビなどで放映されました。
(詳細は二松学舎大学のHPを参照。広辞苑によると、アンドロイドとは「SFに登場する、人間そっくりのロボット」です。)
(青色文字をクリックするとリンクされた解説記事や青空文庫などをご覧になれます。)
夏目漱石の本名は夏目金之助です。
2016年の「今年の漢字」に選ばれたのは「金」でした。面白い偶然の一致です。
かねてから高浜虚子と夏目漱石の関係についてブログを書こうと思っていましたが、このアンドロイドに触発されて「文豪のアンドロイドや漱石忌」「漱石忌アンドロイドの語り口」などと即興の俳句を口遊みながら実行しました。
夏目漱石と言えばすぐ「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」が浮かびますが、「吾輩は猫である」は「ホトトギス」に掲載されて一躍有名になった文壇における漱石の処女作と言えます。
高浜虚子が正岡子規から引き継いだ後に「吾輩は猫である」が「ホトトギス」に掲載され、それによって漱石が一躍人気作家になり、ホトトギスの購読者も増えて虚子の「ホトトギス王国」が築かれたようです。
この当時の事情はNHKの土曜ドラマ「夏目漱石の妻」である程度分かりましたが、高浜虚子の「漱石氏と私」を読み更によく分かりました。
インターネットで検索すると夏目漱石や高浜虚子の生きざまや著書について様々な評価・感想があります。
夏目漱石が最晩年によく口にした「則天去私」の概念と、虚子の辞世句ともいうべき俳句「春の山屍を埋めて空しかり」の「色即是空」の概念と、両者には何か共通性がある、とチュヌの主人は感じています。
広辞苑によると、「則天去私」とは「小さな私を去って自然にゆだねて生きること」と解説されています。「自然にゆだねて生きること」とは、『私』すなわち人間そのものを『大自然の一部』と見做し、『大自然の摂理』にゆだねながら人それぞれの立場で可能な自助努力をするのがよい、ということだと解釈しています。
(「俳句談義(1):虚子辞世句の解釈」や「究極のLOVEを実践しよう!」をご参照下さい。)
冒頭の写真は「虚子十態」(日本伝統俳句協会のカレンダー2016年12月に掲載されている小川千甕の戯画・「ホトトギス」大正元年9月号に掲載されたもの)ですが、それを見て、「極月の暦におかし虚子十態」と駄句を口にしながら、来年こそは高浜虚子の俳句の英訳にチャレンジしようと決意を新たにし、翌年に100句翻訳したものを見直し、2018年に国際俳句交流協会のHPに掲載して頂きました。
興味があれば、青空文庫の「高浜虚子五百句」や「高浜虚子五百五十句」「高浜虚子六百句」もご覧下さい。
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