俳句談義(11):「甘納豆」と「おでん」と「俳句」

               

俳句は好き好きである。

 

高浜虚子の俳句について、長谷川櫂さんが指摘した「場」を推定し、私なりの解釈を楽しみながらブログを書いている。

高野素十の俳句「朝顔の二葉のどこか濡れゐたる」に対する虚子の句評ついて、「俳句のユーモア」(講談社)で坪内稔典さんが言っていることに頷けない点があるので次に抜粋し、私見を述べさせて頂く。

  

(虚子の句評)

ただ朝顔の二葉といふものを見て俳句を作らうと試みた。ただ朝顔の二葉のみである。その外に何物もない……。色々考へわづらうた末に、「どこか濡れ居たる」といふことに到着して作者の心は躍動した。 ・・・(省略)・・・

朝顔の二葉を描いて生命を伝へ得たものは、宇宙の全生命を伝へ得たことになるのである。鐘の一局部を叩いてその全体の響きを伝へ得ると一般である。(『句集虚子』昭和5年)

  

(稔典さんの記述)

前段は表現の細部に眼が届いた優れた鑑賞だ。だが、後段では、五七五の背後に大宇宙を見るという恣意に陥っている。

・・・(省略)・・・

そこには俳句の表現が本来的に片言に近いという自覚がない。

こんな虚子のような見方に従うと、ほとんどの俳句は宇宙の全生命に結びついてしまう。

・・・(省略)・・・

そんな見方は俳句という小さな詩型にとってあまりにも大ざっぱに過ぎる。あるいは達観しすぎた見方だ。

・・・(省略)・・・

片言性から眼をそむけ、五七五の表現されていない背後などに頼っていたのでは、片言の力をうまく発揮できないだろう。(以下省略)

            

    

稔典さんは上記のように虚子の句評を批判しているが、この批判は的を射てない。

「俳句の表現が本来的に片言に近い」という制約がることは、高浜虚子が認識していたことは言うまでもないだろう。だからこそ、季語季題を活用することによって初心者でも詩的な俳句を作りやすくなるように指導したのだろう。

「五七五の表現されていない背後」などを考えるのも俳句鑑賞の面白さの一面である。それを否定することは俳句の面白さの一面しか知らない者の言であろう。稔典さんは勢いで筆が滑ったのではなかろうか?

    

虚子の句評は大げさと言えないこともないが、良きにつけ悪しきにつけ句評は一般に大げさなものが多い。

朝顔の二葉を描いて生命を伝へ」や「宇宙の全生命」とは「宇宙の摂理」や「自然の摂理」の現象を指していると解釈すべきだろう。

虚子は「鐘の一局部を叩いてその全体の響きを伝へ得る」と言っている。だが、坂本龍馬の言を借りれば、その響きは俳句の作者と鑑賞者のレベルや考え方次第である。

宇宙の摂理が表わす様々な現象・自然の美を愛で、それを俳句にするのが「花鳥諷詠」であるが、素十の句が「朝顔の二葉を描いて生命を伝へ得た」としても、「宇宙の全生命を伝へ得た」かどうかは評価が分かれるだろう。

もちろん、この素十の俳句のような句風のみが花鳥諷詠というわけではない。

虚子も自由奔放に、「朝顔にえーっ屑屋でございかな」「去年今年貫く棒の如きもの」「天の川の下に天智天皇と虚子と」「初空や大悪人虚子の頭上に」など、様々な句を作っている。

  

稔典さんは虚子の句「春風や闘志いだきて丘に立つ」について、「かって私の愛誦句だった」と述べている。

正岡子規松尾芭蕉の「正風俳諧」・「連句を批判して「客観写生」を唱道したように、稔典さんは高浜虚子の「花鳥諷詠」を敢えて批判することによって、「片言性俳句」(?)を新しい句風として唱道しようとしているのだろうか?

  

俳句の大衆化という点においては「虚子の目指していたこと」と「稔典さんが目指していること」に共通性があるのだろう。だが、その手法や句風には大きな隔たりがある。両者には時代の差があり、俳句の入門書も虚子の「俳句の作りよう」と「坪内稔典の俳句の授業」(黎明書房発行)の違いは大きいが、例えば次の俳句が両者の違いを如実に示している。

      

志俳諧にありおでん食ふ

桐一葉日当りながら落ちにけり

見送りし仕事の山や年の暮

三月の甘納豆のうふふふふ

甘納豆六月ごろにはごろついて

十二月をどうするどうする甘納豆

              

虚子はホトトギスに「台所雑詠という欄を設けて女性の俳句を奨励・指導して女性俳人を育成した。その影響は大きな効果を生み、かっては俳句は男性が作るものだったが、現在は圧倒的に女性が多くなっている。

しかし、若い世代の俳句愛好家が少ないのは残念である。

上記の句「三月の甘納豆」には伝統的な俳句川柳と違う新しさを感じる。だが、「甘納豆六月」や「12月の甘納豆」は甘党甘納豆に飽きが来たということなのだろうか、若者の気を引くために俳句の例句として作ったのだろうか。いずれにせよ、俳句というよりも言葉の遊びである。

甘納豆」は美味しいが、所詮おやつである。辛党にはやはり「おでん」がよい。先日のテレビ番組で「サラリーマン川柳」や「女子会川柳」など川柳に興味をもつ若者が増えていることを紹介していた。

甘納豆の句は「俳句・川柳まがい」の駄洒落の感があるが、稔典さんの新しい句風が若者の感性に合い、「俳句はお年寄りの趣味だ」などと見向きもしない多くの若者の興味を惹き、若い世代の本格的な俳句愛好家が将来増えるきっかけになれば結構なことである。

駄洒落と言えば、高浜虚子の「俳句への道」の冒頭に「おやをもり俳諧をもりもりたけ忌」という句が掲載されている。

      

上記のように、虚子も俳句を広めるために駄洒落を用いて面白い句を作っているが、茎(くき)右往左往菓子器のさくらんぼ」という句も作っている。

      

この句について、稔典さんの次のような句評・記事が毎日新聞WEBにあった。

 「先日、この句をめぐって紛糾した。サクランボそのものを詠んだのか、茎を詠んだのかで意見が分かれたのだ。つまり、菓子器にあるのは、茎のからまったサクランボなのか、食べた後の茎だけなのか。私は食べた後派。残骸の茎が楽しかっただんらんを示している。茎(食べかす)を詠んだのはいかにも俳人らしいふるまいだろう。」    

   

山本健吉の「定本 現代俳句」には次のような句評がある(抜粋)

「無造作に詠み放したような作品である。菓子器に盛られたさくらんぼの柄が、縦横に入り乱れてつっ立っているさまに、作者は興趣を感じたので、軽いユーモアがここには漂っていると言えよう。」(以下省略)

         

   

このようなユーモアに腐心した俳句を鑑賞していると、NHK大河ドラマの「花燃ゆ」でおなじみの高杉晋作辞世句といわれる「おもしろくもなき世をおもしろく」を思い出す。

      

余談だが、俳句や川柳で面白く過ごせる、誰でも自由にものが言え世界に発信できる現在の日本の平和は世界大戦の多大の犠牲の上に戦後70年にわたって営々として築いてきたものである。正しい歴史認識をふまえて未来永劫に大切に維持したいものである。成り行きや時の勢いで「筆を滑らせる」ことが無いように、安倍さんや識者がしっかり議論して準備してくれることを祈るや切である。

              

このブログは「釈迦に説法」で失礼したが、「俳句は好き好き」、「解釈は創作」ということでご容赦願いたい。

4月8日は「釈迦の誕生日」であり、高浜虚子の忌日(椿寿忌)である。

次回は「虚子忌」の俳句などについて書くことにしたい。

 

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