神にませばまこと美はし那智の滝
高浜虚子(1874–1959)の代表句の一つである「去年今年貫く棒の如きもの」の解釈について、「虚子の俳句『去年今年貫く棒の如きもの』の棒とは何か?」というタイトルのブログを書きましたが、虚子は深読みすると面白い意味深な掲出句を作っています。
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「神にませば」の俳句について、坊城俊樹氏は次のように述べています(「高浜虚子の100句を読む」から抜粋)。
「この句は『五百句』にもあるように、虚子の句の中でも史実を超えた代表句。特に吟行の旅における傑作といっていい。(…中略…)滝の美しさもさることながら、茶屋の娘の美しさに気を配るあたり、なかなかお忙しいが、まことに虚子らしい。とまれ、那智の滝の美しさは女性に喩えるのは当然で、あの日本一の一条の滝の姿は大日如来の再現である。」
また、滝の下にある虚子の句碑を観て詠んだ次の2句を掲載して、「本歌取りというほど高尚なものでもないが、虚子の句への尊厳を込めてというよりは、この滝の日本一の美しさと気高さにたいしての存問と思いたい。」と述べています。
滝にまさば神を白しと思ふかな
岩座を後背として那智の滝
「神にませば」の俳句を英訳するために広辞苑で調べたところ、「ます」の漢字表示には「申す」(=「言う」の謙譲語)と「在す・坐す」(=「在る」「居る」の尊敬語)があることが分かりました。
高浜虚子は意図的に漢字を用いず、「ひらがな」で「ませば」と表記したに違いありません。
前者の意味に解釈すると、「神にませばまこと美はし那智の滝」の句意は、「神に申し上げますが、那智の滝は真に美しいですね」と、「神の創造した自然を賛美している」ことになります。
また、後者の意味に解釈すると、「神にある那智の滝は真にうるわしい」という意味になりますが、どうも合点が行きません。
インターネットで解説記事や写真などをあれこれ検索した結果、「神に在るもの」とは「滝そのもの」ではなく「滝が象徴するもの」を指している比喩であることに気付きました。
古来から生命の源泉を崇拝して豊穣を祈願する素朴な信仰、生殖器崇拝の概念がありますが、「那智滝」の信仰にもそのような一面があるに違いありません。
熊野那智大社のホ-ムページをご参照下さい。
高浜虚子の俳句には座興に作ったのか、人を食ったような俳句もあります。「那智の滝」は大日如来の再現であるとも言えるでしょうが、この俳句では「観音様」(=「女陰」)の隠語も暗示している隠喩の効果も意図していると思います。
滝の落下水量、滝の見える場所、季節などの条件次第で、那智の滝は様々な姿を見せてきたのではないでしょうか?
那智の滝の画像集をご覧になると、「それ」らしく見える写真があるでしょう。
「神にませば」の俳句と「去年今年」の俳句を合わせて考えると、冒頭のブログにおいて触れた中年婦人の感想(「この句を知ったとき、顔が火照り、胸がときめき、しばらくは止まらなかった」)に納得できないこともない気がします。
高浜虚子の「遊び心」「自由奔放さ」に感嘆しましたが、「不謹慎な下司の勘繰りである」と非難・一蹴されるでしょうか?
「高浜虚子の俳句の奥の深さを良く理解している」と評価して呉れるでしょうか?
この俳句を卑しい人が読めば「卑しい俳句」として貶すでしょうし、自然を愛し自然の摂理を理解・尊敬している人が読めば、「素晴らしい俳句」と思うのではないでしょうか。
「何事も両面あるので良く考えることが大切だ」と痛感しています。
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