「高浜虚子の俳句『壺すみれ』をHAIKU(英語俳句)に翻訳する」において誤訳の例を紹介し、俳句をHaikuに翻訳する難しさに触れましたが、同じ翻訳者が掲句を次の通り英訳しています。(出典)One Hundred and One Exceptional Haiku Poems by Kyoshi Takahama
Giving roses,
A woman
Lent me a Bible
上記英訳の「giving」について、「誰が誰に薔薇を与えたか」曖昧です。原句においても、「薔薇呉れて」「聖書貸したる」「女かな」の主体(主語)と客体(目的語)の関係が曖昧です。したがって、曖昧な翻訳になるのもやむを得ないでしょう。しかし、「give」は二重目的語をとる授与動詞ですから、この翻訳のように目的語が一つしかない文法的に不完全な表現は英語俳句(HAIKU)として拙いでしょう。
高浜虚子がこの俳句を詠んだ背景を知ろうとインターネット検索をすると、「増殖する俳句歳時記」の今井肖子の解説に、高浜虚子の下記自解が紹介されていました(抜粋)。
「ふとしたことで或る女と口をきくやうなことになつた。その女は或とき薔薇を剪つてくれた。そしてこれを讀んで見よと云つて聖書を貸してくれた。さういふ女。」
上記の高浜虚子自解に基づいて主体・客体の関係を明瞭にして次の通り翻訳します。なお、上記の翻訳は各行の最初の文字を大文字にしていますが、このように3行で一つの文(各行は文の一部)になっているHAIKUの場合は不適切です。文頭のみ大文字にして句意を明瞭に表現します。
Giving me roses,
a woman
lent me a Bible.
余談ですが、高浜虚子は原句を作ったときは26歳です。
今井肖子の句評にあるように、高浜虚子はこの女性に対して何か格別の思いや印象があったのでしょうか? それとも、「聖書」と「バラ」や「イエス・キリスト」と「バラ」の関係などについて何らかの「謂れ」があったのでしょうか?
高浜虚子が掲句を作った背景として、「薔薇」と「聖書」の間に何か関連があるのではないかだろうかと興味が湧き、インターネットで検索すると、「シャロンのバラ」とか、「Rose Of Sharon」という言葉が目につきました。(Jesus As The Rose Of Sharon参照。)
掲句の背景について何かご存知の方があればコメントを頂きたいと思っています。
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