正岡子規の「鶏頭の」句の評価や解釈について、ウィキペディアに様々な説が紹介されている。
例えば、大岡信の解釈の記述について抜粋すると:
「ぬべし」という、完了および強意の「ぬ」に推量の「べし」が結びついた語法が客観写生の語法とは言えず、「現在ただいまの景を詠む語法としては異様」として上の説の傍証としている[21]。
とあるが、その後の解釈について次の解説がある:
しかし林桂は、大岡の説については「ぬべし」が「現在に対する語法としては異様」だという説に根拠がなく、辞書の用例等から考えてむしろ過去に向けて使うものとする考えのほうが異様であること、また坪内の論についてはそもそも子規邸の鶏頭が黄の種でもありえたこと等をそれぞれ指摘し反論を行っている(「鶏頭論」「未定」1979年-1980年)[22]。
近年では前述の坪内が「鶏頭の句は駄作」(「船団」2009年3月)において、子規という作者の人生を読み込まなければ「語るに足らない駄作」であると明言し、もし句会にもういちど作者の名を消して出したとしても末期の存在感のようなものは感じ取れないだろうと書いている。
これに対し高山れおなは「子規の人生とセットにすることでそこに感動が生まれるならセットにしておけばよいではありませんか」と評し、またそもそもこの句が投じられた句会ではほかにも子規は鶏頭の句を出しているのだから、この句だけが選ばれ議論されているのは何故なのかということこそ考えねばならないという趣旨の批判を行った[23]。
またこのやりとりに関して山口優夢は、むしろ鶏頭というものに対して「十四五本」という、それまでにない言い表し方がぴったり合っていたということが、この句が残った理由であり句の核心ではないか、という見方も示している[24]。
「私の歳時記」に、上記諸説の要約らしき記事があった。
以上のような様々な説を踏まえて、今回は正岡子規の「鶏頭の」句の英訳に挑戦する。
cockscombs
must have been fourteen or fifteen
blooming over there
である。
「Haiku in English on Sunday」には次の英訳があった:
Cockscombs
There must be fourteen
Or fifteen
いずれも「cockscombs」に冠詞がなく曖昧模糊としているが、冠詞は省略されたのだろうか?
簡潔にするためには冠詞を省略すればよいという考え方があるが、現に見ているものや心に抱いているものを詠んでいる場合は、名詞が複数でも対象が全体として特定されているのだから定冠詞を付けた方が明瞭でよいと思う。
HIAのホームページにある「英作ハイク 入門編 第4回ワンポイント・英作ハイク」(宮下惠美子)参照。
この句は現に見ている鶏頭を詠んだものとすれば、
the cockscombs
there must be fourteen or fifteen
in bloom
と英訳すればよいのではないか?
咲いていた鶏頭のことを思い出して詠んだものとすれば、
the cockscombs
there must have been fourteen or fifteen
in bloom
日本語と俳句をよく理解しているnative speakerの意見・コメントを是非伺いたいものである。
青色文字をタップすると、最新の「俳句(和文)」や「英語俳句」の記事をご覧頂けます。
トップ欄か、この「俳句HAIKU」をタップすると、最新の全ての記事(タイトル)が表示されます。
記事のタイトルをタップ(クリック)して、ご覧下さい。