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2014年8月

2014年8月26日 (火)

花鳥6百号記念全国俳句大会に参加

     

(2023.11.29 更新) 

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写真は花鳥11月号「花鳥徒然」の薫風士の投稿記事です。

タップ拡大してご覧下さい。  

2023年4月9日開催の花鳥700号記念大会•坊城中子お別れ会の懇親会で坊城俊樹主宰やゲスト選者、参加者などの興味深いお話を拝聴し、思ったことを書きました。

     

   

花鳥誌の表紙絵パズル師の蛍

   

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花鳥誌の表紙を2022年4月から2023年3月まで並べると、写真のとおり、俊樹主宰の俳句の色紙になりました。

青色文字をクリックして、リンク記事をご覧下さい。

   

   

花鳥誌の遊び心の麗かな

掲句の「花鳥誌」は「花鳥子」に置き換えても良いと思っています。

      (薫風士)」

   

(2014.8.26 の記事)

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2014年8月22~23日に東京の霞会館で開催された花鳥6百号記念全国俳句大会にチュヌの主人は参加しました。  

先ず、募集句について特選句を次のとおり披露させて頂きます(敬称略)。

           

(花鳥主宰・坊城俊樹選)

特選一席: 
花鳥とは人と月日と赤蜻蛉  
         (大槻独舟)
 
特選二席: 
ミサの椅子甘く匂ひし青葉雨 
        (栗原和子)
 
特選三席: 
笹粽孫にも少し平家の血   
        (松本洋子)
        

(花鳥名誉主宰・坊城中子選)

特選一席: 
だんだらの幕の茶屋あり菖蒲園
        (榊原冬人)
 
特選二席: 
鍵隠す場所を見てゐる夕燕  
         (奥清女)
  
特選三席: 
ますかたの山裾守る碑の朧  
       (原澤百合子)
           

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 8月22日は坊城俊樹主宰の講演の後、女性講談師神田京子さんの講談などがあり、夜の懇親会は、入院治療中にも拘わらず坊城中子名誉主宰も出席され、国際俳句協会の有馬明人会長やホトトギス稲畑汀子名誉主宰などの来賓の方々が出席されて大いに盛り上がりました。

          

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8月23日の句会は中子名誉主宰は残念ながら体調不良で欠席されました。

ご回復の速やかなことをお祈りするばかりです。

     

   

句会は127名が参加し、投句5句、選者の選の他に参加者の互選(選句3句)で行われました。

チュヌの主人の俳句は次の3句が選者や互選に入選しました。

    

内堀の柳触れ行くジョガーかな    

八月の思ひ格別皇居前    

ライブ待つ若者長蛇日比谷の盆

    

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青色文字をタップすると、最新の「俳句(和文)」や「英語俳句」の記事をご覧頂けます。

トップ欄か、この「俳句HAIKU」をタップすると、最新の全ての記事(タイトル)が表示されます。記事のタイトルをタップ(クリック)して、ご覧下さい。

  

   

2014年8月25日 (月)

ニイナちゃんに奇遇

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チュヌの主人は横浜都筑区のマンション近辺の開発状況を見に行ったところ、お母さんのお友達が犬の散歩をしているのに偶然会いました。

お友達のワンちゃん(ニイナちゃん)は12歳になり少し目が悪くなったので良くなるようにお地蔵さんにお祈りしているところでした。

チュヌも膵炎で困っていますが、ニイナちゃんの病気も早く治りますように祈っています。

2014年8月18日 (月)

俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(12)

今回は芭蕉の俳句「閑かさや岩にしみ入る蟬の声」のドナルド・キーンさんの英訳について再考する。

この句は芭蕉が山形市の「立石寺」で詠んだものであるが、俳句の対象となった蝉の種類について、歌人・精神科医の斎藤茂吉はジージーと鳴くアブラゼミであると主張し、夏目漱石門下で芭蕉研究家の小宮豊隆はチィーチィーと小さく鳴くニイニイゼミであると主張して蟬論争が起こった。この論争は検証の結果ニイニイゼミで決着したとのことである

 

「俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(4)」において、「ドナルド・キーンさんの英訳:

Such stillness-  
The cries of the cicadas
 
Sink into the rocks.

に納得した」と書いたが、蝉論争に関する記事を読んだりして、この英訳を再検討した。

The cries of the cicadas」と複数形で記述しているが、「The cries of a cicada」と単数形にしたらどうだろうか? 

「蝉が蟬時雨のように鳴いていても芭蕉は閑さを感じたのだ」と考えることも出来るが、1匹のニイニイゼミの声の他には何の物音もしない静寂を詠んだのだと素直に考えることもできる。

蝉は一頻り鳴いては移動する習性がある。蝉の声が岩にしみ込んでいくように感じられる閑さを詠んだと考える方がわかりやすい。

そこで、次のように試訳した。

the stillness_

absorbed into the rocks

the cries of a cicada

2014年8月15日 (金)

お友達の川柳 平素の思い(その2)

三田ウッディタウン在住の前川郁夫さんの川柳を7句披露します。

・高齢化地域対策推進を

・地域との拘わりもって良い町に

・歳取れど出来ることなどまだあるよ

・若者よ1人暮らしはあと難儀

・今の世に大切なのは子供達

・パソコンで妖怪たちと四歳児

・子育ての支援推進町活性

2014年8月14日 (木)

ブログの充実

ブログ「チュヌの便り」を始めてから半年になる。

最近は国際俳句交流協会のホームページ「俳句・ハイク」「名句選」に掲載された俳句の翻訳について「俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ」と言うタイトルで、気になっていた誤訳のことなどを14回に亘って書いた。

会社の同期の仲間や先輩の川柳、俳句仲間の俳句エッセーなども掲載させて頂き、ささやかなブログであるがアクセスの累計も5,000を超えた。

ブログを書く過程でインターネットで検索した参考になるサイトはリンクさせて頂き内容を充実することに努めている。リンクで情報源がどんどん広がるのが面白い。しかし、インターネットのサイトも見せかけの情報で宣伝ばかりのものがある。情報が過剰にあり玉石混交なので良質の情報源を選択して、このブログに興味を持って頂く方の情報収集と時間セーブのお役に立つようにしなければならないと思っている。

2014年8月12日 (火)

俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(14)

今回は国際俳句交流協会のホームページのトップにある俳句「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)を取り上げる。

 

大岡信の「百人百句」(講談社)におけるこの句の解説を抜粋すると: 

---- 廊下の奥というささやかな日常生活に、戦争という巨大な現実は容赦なく侵入してくる。その不安が一種のブラックユーモアとして言いとめられている。この句は新興俳句が理念の一つとした社会批判や社会性を意想外の角度から巧みに表現しており、昭和14に作られているというところに先駆的な意味を持っていた。 ---- ---- 渡辺白泉という俳人が特別鋭い社会感覚を表現できた人である --- --- 昭和15年に京大俳句事件で検挙され執行猶予になるが、執筆停止処分を受けた。----  

とある。

 

幼少の頃、雨戸の開け閉めが自分に課せられた仕事だったが、長い廊下の奥の方が薄暗くて気味が悪かった記憶がある。渡辺白泉がこの句を作った頃の日本社会の不気味さを比喩的に「廊下の奥」と表現し、自由にものが言えない時代に「戦争」の予感・警告をかろうじて俳句にしたのだろうか? 「立ってゐる」としないで「立ってゐた」と過去形にしたのはなぜだろうか? 白泉を尾行している特高警察がどこかの廊下に立っていたことを戦争に例えて俳句にしたのだろうか?

この句は季語もなく、伝統的な俳句を代表するものでもなく、川柳かと思うような句であり、作者や時代背景の解説がなければ、全く理解できないものである。

この句について、HIAの名句選「愛好10句 金子兜太抄出」には次の英訳が掲載されている。

The War
in the dark at the end of the hall
it stood

 この句の作者の意図や時代背景など何も知らない外国人が上記の英訳HAIKUを詠んで句意を理解できるだろうか? 

「廊下の奥(in the dark at the end of the hall)」という比喩を理解できるだろうか? 

The War」とは第2次世界大戦のことであり、「it stood」と記述しているのは「過去のものだ」と言っているのだと誤解するのではなかろうか?

この俳句から日本の俳句の良さを理解し、HAIKUは素晴らしいと思うだろうか?

   

     

英語のハイクでは比喩を好まないようである。この句の比喩をHAIKUとして訳出しようとすれば、例えば次のように意訳すればどうだろう?   

a warmonger
stood
at the end of the hall

又は、

war
at the end of hall__
threatening

上記最初の意訳では「戦争」を「warmonger(戦争屋」と意訳し、「事実を詠んだ俳句として冠詞を普通通りに付けてある。「the War」とすれば第2次世界大戦など最近の大戦を指すことになり、「the hall」とすれば日常使っている特定の「廊下」を指すことになり、原句の比喩の理解の妨げになるだろう。従って、二つ目の意訳では抽象的に漠然と比喩的に表現したものとして、「war」や「hall」に冠詞を付けていない。

       

国際俳句交流協会(HIA)では俳句を国際的に広めて、無形文化世界遺産に登録されるよう努力しているとのことである。俳句が国際的に広がり、日本人は自国のみならず世界の平和を希求していることが国際的に理解されることを切望している。それにしても言語の違いが単に俳句・HAIKUの国際化のみならず世界平和の実現の障壁となっていることを今更ながら痛感する。ささやかながらこのブログが俳句の国際化、世界平和の実現への草の根運動の一助にでもなれば幸いである。

2014年8月 8日 (金)

俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(11)

 

今回は正岡子規の句「雷晴れて一樹の夕日蝉の声」の翻訳を取り上げる。

この句の英訳として、国際俳句交流協会HIAのホームページ「俳句・ハイク」「名句選」の「愛好10コー・ヴァン・デン・フーヴェル:抄出には次の翻訳が掲載されている。 

after the thunder-shower
one tree in evening sunlight
a cicada's cry
 

子規はこの句で一匹の「蝉の声」を聞いたので「蟬時雨」と言わなかったのだろうか? 

一般に「蟬の鳴き声」は「蟬時雨」という季語があるように賑やかなことが多いが、雨上がりに一斉に蝉が鳴きだしたのを聞いた記憶からすると、この句の蟬の声は複数として英訳してみたい。

一樹の夕日」は「一樹に夕日が差している」ことを詠んだのだろうか? それとも、「夕日に一樹が黒く見える」状態を詠んだのだろうか?

詩心よりも、このような実際的な現象につい拘るのは長年ビジネスレターや契約書、特許明細書などの翻訳をしてきたせいだろう。しかし、子規は蕉風に対抗して写生を唱道したのだから、子規が実際に見たであろう風景を自分なりにイメージして、次のように試訳する。

an evening sunlit tree

after the thunder-shower_

singing of cicadas

子規は上記の翻訳を何と思うだろうか?

2014年8月 7日 (木)

俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(10)

国際俳句交流協会のHP「愛好10句」ウィリアム・J・ヒギンソン(俳号:緋庵)抄出に次の俳句が掲載されている。

    

火の奥に牡丹崩るるさまを見つ

 

この句は加藤楸邨の昭和20年の作であるが、山本健吉の「定本 現代俳句」における解説を次に抜粋する:

523日、深夜大編隊空襲、一夜弟を負ひ、二子を求めて火中彷徨」と前書きがある。次いで、「524日、我が家も消失、雲の峰八方焦土とはなりぬ」「明易き欅にしるす生死かな」。豪華な句である。家が火で崩れ落ちるさまを、「牡丹崩るる」と形容したのである。だが、単なる形容ではなく、楸邨式に言えば作者の感情の昂揚が牡丹に「感合」したのである。---- 比喩としての牡丹ではあるが、作者はまざまざと大輪の真紅の牡丹の崩れ落ちるさまに、目を見張っているのだ。比喩の裏付けとしての作者の感動の大きなゆらぎを感じとることができるのだ。  

     

上記の解説の句意はHIAのHPに掲載された次の英訳HAIKUに反映されているだろうか? 

in the fire-depths
saw the way
a peony crumbles

  

この俳句を作った楸邨の意図は前書きのある原句ではわかるだろう。しかし、上記の英訳では前書きや解説がなく、その句意は全く分からない。山本健吉が解説しているような作者の意図を訳出することは至難の業であるが、次のように思い切った意訳をすれば、すこしは反映出来るのではなかろうか?  

in the air-raid fire

my house burnt down

crumbling like a peony

 

外国の俳句愛好家に日本語の俳句を理解して貰えるように作者の意図・句意をHAIKUに反映して翻訳するためには、意訳が避けられない場合が多い。もし、楸邨が英語を理解し上記の翻訳HAIKUを読むことができたとすれば、何と思うだろうか?

俳句・HAIKUの翻訳に携わっている関係者のご意見を賜れば幸いである。

2014年8月 6日 (水)

俳句・HAIKU 言語の壁を破るチャレンジ(9)

国際俳句交流協会のホームページ掲載の「俳句・ハイク」「名句選」のジェームス・W・ハケットJames William HACKETT10句選の冒頭に次のHAIKUと翻訳句が掲載されている。

   

back empty-handed

from the bursting meadow: idle

ikebana bowl

McMaster, Visnja (Croatia)
マクマスター、ヴィニア(クロアチア)

 

花器は空っぽ野の花摘むをためらえば

    

上記の翻訳はうまく工夫されているが、「野の花摘むをためらえば」は考え過ぎ・意訳過ぎの感じがする。

bursting」は「---が突然現れる」とか「---で充満する」などと言う場合に用いられる。

bursting meadow」と言う表現において「---」が何であるかがこのHAIKUの解釈のポイントになる。このHAIKUの場合「---」を「花」と解釈することは不適切だろう。「花が野に充満しているなら」躊躇せずに花を摘むだろう。この場合は、新芽の鮮やかな色が草原いっぱいに広がり、草原が突然現れたように見える状態をbursting meadow」と表現していると解釈して「萌え出ずる草原」などと翻訳するのが良いだろう。

「花が咲いていることを期待してはやる気持ちで草原に行ったが、まだ摘み取れる花はなく空しく手ぶらで帰った」という気持ちで、「back empty-handed」と冒頭に記述し、最後に「idle ikebana bowl」と記述し、「折角持参した花器を使わずじまいだった」と些か残念な気持ちでいることを詠んでいるものと思う。ちなみに、この場合の「idle」は「使用されないでいる」とか「暇である」という意味である。

   

したがって、このHAIKUの趣旨を生かすには、例えば次のような俳句に翻訳するとどうだろうか?

「萌ゆる原花摘み未だ花器空し」

    

しかし、上記の翻訳では原句の持つ英語の響きの良さ・味わいは表現しきれない。日本語が原句か英語が原句かを問わず、対訳の俳句・HAIKUのいずれもが名句だと感動する例はまれである。対訳の句を鑑賞する度に、所詮「HAIKUは英語で、俳句は日本語で、それぞれに楽しまざるを得ない」という思いを新たにしている。

2014年8月 5日 (火)

クーちゃんとジュエルちゃんに会ったよ!

チュヌはまた膵炎で立てなくなり、主人が点滴をしてくれています。

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南ヶ丘の動物病院で検査をして貰ったら大分よくなったがまだ点滴が必要だとのことです。

    

待合室でクーちゃんとジュエルちゃんに会いました。どちらも腎臓不全の治療をしてもらっているそうです。

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