コメント:

一升 様

「比喩はもともと客観ではないので、誤りも何も無い」とか、
「訓読みは、謂わばすべて当て字です」とか、断定するのは如何なものでしょう?
一升様のこのような断定は納得しかねます。

昔はそうだったにしろ、言葉はご承知の通り進化しています。
進化した豊かな言葉を正確に使うことは大切だと思いませんか? 
とはいえ、俳句を難しくすることなく、親しみやすいものにしようとの思いでブログを書いています。

「未然形の『終へば』は仮定法です。」とのことですが、
この俳句の「ば」は「順接条件で、理由・原因を示す助詞」です。
正岡子規の有名な俳句の「柿くへば」の場合も同じでしょう?

世の中には「浅知恵」で「とやかく」言う人がいますが、そうはなりたく無いと思っています。
もしも文法的に誤りがあるなら、後学の為にコメントを頂けると幸甚です。

(薫風士)

思ったことをブログにし発信するという姿勢、俳句を言語的視点で分析する姿勢、素晴らしいと思い、長文ですがコメントさせてください。

句意はおそらく、痣のさめるように朝焼けも「消えてゆく」ではなく、痣のさめるように「朝焼けだ」です。
この句の一番の特徴は時間経過にあります。「終えて(完了相)」「ゆく(継続相)」と過剰にアスペクトを用いて、その終着点が季語「朝焼」なのです。読者は否が応でも夜の色から朝焼けまでを追体験させられ、その後来るだろう何も無かったかのような朝まで想像させられます。

醒めるという表現も、一瞬誤字かなと思わせといて下五で「ごと」という直喩と「朝焼」という解決を畳み掛けるわけです。比喩はもともと客観ではないので、誤りも何も無いのだと思いますし、訓読みは、謂わばすべて当て字です。

「文法的に無理がある」というのは具体的には主語が一致しないという意味だと解釈したのですが、これも翻訳慣れのせいだと思いました。分詞構文では主語が一致しますよね。私はむしろ、主語が異なるからこそ、上五には切れがあると感じました。「て」は完了相「つ」の連用中止と同形なのです。

また、現代日本語は4音の言葉が増え、伝統的な五七五の音律に無理があるのだと思います。「たい」は果たして2音なのかという先進的な問いも、薫風士さんには理解してもらえると思います。洋楽の流入も含め日本人のリズム感が急速に変化している以上、字余りに対するリズムも変化していくのだと思います。

最後に、もはやどうでもいいですが「終ふ」の已然形は「終ふれ」なので「終ふれば」になります。未然形の「終へば」は仮定法です。