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2015年1月12日 (月)

俳句談義(3):虚子の句「初空や」の新解釈:大悪人は誰か?

    

(P.S. 2024.1.25)

初御空平和祈るや龍昇る

龍昇れ世界の空へ吾夢運び

掲句は「龍天に昇る」(春の季語)を捩っています。

「吾夢」は俳句のリズムに「あむ」と読んで下さい。

初夢の俳句」をご覧下さい。

        (薫風士)

  

(2015.1.12の記事)

正月になれば虚子の句「初空や大悪人虚子の頭上に」のことに思いを巡らせる。

      

この句は従来の一般的な解釈では「大悪人虚子」と読んでいるが、そうであれば、「初御空」と表現するのが自然でないか? 「初空や」の句は5・7・5の定型でないが、「大悪人」と「虚子」を切って間をとって読めば俳句として不自然ではない。

虚子が「初御空」と言わず、「初空や」と詠んだのは「大悪人」と「虚子」とを切り離して、文字通り「大悪人が虚子の頭上にいる」と読ませるためでないか?  

それでは「大悪人」とは誰を指すのだろうか?   

大胆な推定であるが、「大悪人」とは「天智天皇」を指しているのではなかろうか?

   

虚子は同じ頃(大正6年)に「天の川の下に天智天皇と(臣)虚子と」という句を作っている。

虚子が「天の川の下に天智天皇と」と並記していることに興味が湧き、ネット検索をしたところ、吉岡禅寺洞の記事に「一千余年を隔てた二人の人物が、ひとしく文学者としてつながり」とあるが、虚子天智天皇を句に取り入れたのはそれだけが理由ではないだろう。

ウイキペディアの解説によると、「天智天皇」は「中大兄皇子」のことであり、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。」とある。

    

大義のある改革をするためとはいえ、「暗殺」という非常手段に訴えることは「大悪」である。対立する側からは中大兄皇子は「大悪人」とののしられたであろう。

だから「天智天皇のことを大悪人」と言っても不思議ではない。「初空や」の句は「天の川」の句と併せ読むと、「大化の改新をした天智天皇が大悪人なら、俳句の革新・大衆化を進めている臣たる自分も大悪人である」と感じて、「天智天皇が臣虚子を初空で見守っている」と詠んだものであると解釈することもできるだろう。

虚子は俳句を大衆に広めるために「花鳥諷詠」と「客観写生」を唱え、有季定型」は俳句の重要な要件であると説いている。しかし、虚子が作った「天の川」や「初空」の句は「定型」の5・7・5ではない。自分と対立する立場の人々から非難もされている。良かれと思ってしたことが傲岸ととられたり、悪い結果になったこともあるかもしれない。自分がしてきたことに対して何らかの罪悪感を持つこともあっただろう。

虚子は「天智天皇も自分もとか原罪などを同じように持って生まれた人間であり、1200年の時代の差は悠久の宇宙から見れば無きに等しい」と感じていたかもしれない。

         

このような解釈をすると、「一方で『天智天皇と(臣)虚子と』と言いながら、他方で『大悪人虚子』と言って俳句を作ったのも自然の成り行きと言える。このように考えると、本との出会い(4)」で提起した疑問を解消することができる。

     

「天智天皇を大悪人と言うのはけしからん」とか、「虚子が天智天皇のことを大悪人などと言うはずがない。バカなことを言うのもいい加減にしろ。」と怒る人もいるだろう。

しかし、「選は創作なり」と虚子は言っている。俳句を「鑑賞」し「解釈」することも「創作」と言えないこともない。 

虚子は俳句で様々な表現を試みており、その解釈も読み人次第であることを認識していたのだから、「このような解釈も創作の一つだ」として認めてくれるのではなかろうか? 

    

俳句の楽しさ面白さ醍醐味は花鳥諷詠の句作のみならず鑑賞を通じて創作的解釈をすることにもある。次回も虚子の俳句について書きたい。

            

最短の詩型としての俳句が持つ本質的な限界と広がりの可能性の面白さを再認識して、このブログを書きました。

何らかのコメントを頂けると幸甚です。

    

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天武天皇の妃である額田王(ぬかたのおおきみ)は
「天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが確証はない。
状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。」
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「俳句は楽しい: 句に興じ茶寿も祝ぎたし新茶汲む」
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俳句も人も好き好きがある。
俳句の適切な解釈は長谷川櫂さんの指摘した「場」をどのように想定するか、
「場」を共有できるか否かで決まる。
高浜虚子の俳句に対する批評に関するブログを検索すると、
この「場」をわきまえず、虚子の俳句のみならず人格まで悪しざまに批判しているブログが見受けられる。
嘆かわしいことだが、死人に口無しである。
チュヌの主人は義憤を感じて代弁をしようとこのブログを書き始めた。

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