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2015年2月27日 (金)

俳句談義(8):「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」《虚子の対話の相手は誰か?》



   

手作りの我が楽園や初蝶来

        (薫風士)

  

タイトルの高浜虚子の掲句について、「古典・詩歌鑑賞」というブログには、虚子が家人と対話していると解釈した記述がある。しかし、掲句について偶々見つけた下記のブログなどからすると、その様な日常的な存問の俳句であるとは思えない。

  

(1)第3回『詩を読む会―高浜虚子を読む』レポート『高浜虚子の俳句についてのメモ』という岡田幸文氏の記事には次の記述がある(抜粋)。

(「見た瞬間に今までたまりたまって来た感興がはじめて焦点を得て句になった」)「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」(昭和21年『六百五十句』)

(初案)「初蝶来何色と問はれ黄と答ふ」(昭和21年『小諸百句』)

          

(2)「K-SOHYA POEM」には次の記事がある(抜粋)

「ホトトギス」昭和21年6月号では、「初蝶来何色と問はれ黄と答ふ」だった。それが再掲誌「玉藻」(虚子の二女星野立子の主宰誌)同年9月号までの間に「問はれ」が「問ふ」に修正された。
この修正は、まことに興味深い。虚子の句作の実際を具体的に例示してくれるからである。「問はれ」から「問ふ」に変ることによって、この句は単に実際の体験を詠んだだけの句から、もう一つ別の次元へ移ったと言える。「問はれ」て「黄と答ふ」という、ひと連なりの句では、この句は「作者」一人が詠んで、それでお終い、という、つまらない句になってしまう。それを「何色と問ふ」「黄と答ふ」としたことによって、「誰か」を見事に押し隠しているために、句に対話性が導入され、句が大きく、広くひろがった。

(詳細はここをクリックして参照下さい。

                

掲句が日常的な平凡な句ならば詠み捨てにしてもよいだろうが、虚子はこの句を上記のように推敲している。特別の存問の句として大切に考えていたのだと思う。

それではこの句における虚子の対話の相手は誰か? 

それは緒方句狂でないか?

虚子が「初蝶だよ」と話しかけ、句狂が「何色ですか?」と尋ね、それに虚子が「黄だよ」と答えたのではないか?

そう考えるのは「盲目の俳人・緒方句狂の作品と高浜虚子のメッセージ」を読んだからである。

次にその記事の内容を抜粋引用させて頂く。

    

昭和22年、句集「由布」に寄せた高浜虚子の序文に、

「両眼摘出昼夜をわかたず」という前書きがあって、

「長き夜とも短き日ともわきまえず」という句がこの句集のはじめにあるが

・・・(省略)・・・

私は九州に旅する度に、別府の埠頭に、黒い眼鏡をかけ、人に助けられて立っている句狂君を見出すのである。昨年行った時もそうであった。そうして各地の句会には必ず句狂君の顔を見た。句狂君の成績はいつも立派であった。・・・(略)・・・

昭和22106日 小諸山盧 高浜虚子 

     

この句集「由布」の(ばつ)に、句狂は次のように記している。

昭和958日、当時炭鉱で従事して居りました私は、坑内作業中ダイナマイトの事故により、遂に失明せねばならぬ運命におかれました。

・・・(省略)・・・

黙星君は私の寄稿の中から選んで、ホトトギスに投句していたとみえ、はじめてその年の12月号のホトトギスに

「長き夜を眠り通してまる三日」

というのが

「長き夜とも短き日ともわきまえず」

と虚子先生によって御添削を頂き、初入選したのでありました。

・・・(省略)・・・

若し私に俳句がありませんでしたならば、今頃どんなになっていたでありましょうか。往時を顧みますとき、総身泡を生ずるの思いがあります。私は俳句に依って更生させられたのであります。否、邪悪の淵に溺れていました私は、虚子先生や清雲先生の温かい情に救い上げられたのでありまして、今更ながら感泣せずには居られません(以下略)

  

なお、初代(句狂の妹)の「句狂の追憶」の項の最後に次の記述がある(抜粋)。

・・・(省略)・・・

以上が闘病句で高浜虚子先生より次の弔句をいただきました。句狂もさぞかし泉下で感泣したことと存じます。

「目を奪い命を奪う諾と鷲  虚子」

(以下省略)(詳細はここをクリックしてご覧下さい。)

           

上記の虚子の弔句に関連する記事として「徒然詩」から次のとおり抜粋させて頂く。

    

緒方句狂(くきょう)。明治36年(1903)~昭和23年(1948)。本名稔。田川郡赤池町に生まれました。
 父の営む古物商を手伝いながら、明治鉱業赤池炭鉱の坑内夫として働きました。昭和9年に、ダイナマイト事故で失明してしまいます。失明のため、悩んでいた頃、俳句に出会います。河野静雲、高浜虚子に師事し、めきめき上達します。昭和20年に、「ホトトギス」同人となります。
「闘病の我をはげます虫時雨」の句を残して、ガンのため、45年の生涯を終えました。

・・・(省略)・・・

「目を奪い命を奪う諾と鷲」(虚子)
高浜虚子が、緒方句狂について詠んだ句です。とても難解な句です。鷲は句狂のことでしょう。諾には「諾う(うべなう)」-受け入れるーという意味があります。つまり、句狂が、失明を運命として受け入れたことを詠んだのだと思います。(以下、省略)
(詳細はここをクリックしてご覧下さい。)

                    

「俳句への道」に於いて、虚子は次のように述べている(抜粋)

私はかつて極楽の文学と地獄の文学という事を言って、文学にこの二種類があるがいずれも存立の価値がある、俳句は花鳥諷詠の文学であるから勢い極楽の文学になるという事を言った。如何(いか)窮乏の生活に居ても、如何に病苦に悩んでいても、一たび心を花鳥風月に寄する事によってその生活苦を忘れ病苦を忘れ、たとい一瞬時といえども極楽の境に心を置く事が出来る。俳句は極楽の文芸であるという所以(ゆえん)である。(『玉藻』昭和28年1月号)

               

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上記のブログの中で
「『目を奪い命を奪う諾と鷲  虚子』(以下省略)
(詳細はここをクリックしてご覧下さい。)」と書きましたが、
その後クリックすると、文字化けして読めないことが分かりました。
下記のURLをクリックしてご覧下さい。
http://carecopain.gooside.com/akukyou.htm
(「チュヌの主人」こと、木下聰)

「俳句への道」における虚子の記述「私はかつて極楽の文学と・・(省略)・・俳句は花鳥諷詠の文学であるから勢い極楽の文学になるという事を言った。」にある「かって」とは昭和22年であり、緒方句狂の亡くなる前年である。
このことから、虚子が俳句を「極楽の文学」というようになったきっかけは、俳句を通じて緒方句狂を知ったことにあると言えるだろう。

稲畑汀子さんの「虚子百句」を読み返して、掲句について次の記述があることに気づいた。
「昭和21年、虚子73歳の作である。・・・(省略)・・・
句意は説明するまでもないだろう。『珍しく暖かい日に、ふと見ると黄色い蝶が風に乗ってどこからともなく庭の面に現れた』と虚子は書いている。初蝶の訪れを見た主客の心の踊りが、珍しい対話形式で構成された一句によって生き生きと表現されている。
・・・(省略)・・・
虚子はこの後も存問を深めて、遂には『極楽の文学』という思想に逢着するのであるが、救済する相手が不在のモノローグの俳句ではそれが成立しないことは自明の理であろう。ちなみに虚子が『極楽の文学』を最初に書いたのは昭和22年3月であった。」
上記の汀子さんの記述は「昭和22年、句集『由布』に寄せた高浜虚子の序文」とタイミングなどがよく合っている。虚子は『珍しく暖かい日に、ふと見ると黄色い蝶が風に乗ってどこからともなく庭の面に現れた』と書いているとのことであるが、庭に来た黄蝶をみて、緒方句狂との対話を思いだしてこの句を作ったのではなかろうか?

高浜虚子の人間性を知ろうと思ってインターネットを検索していて、
「緒方句狂」のことを知り、虚子の人間性の一端を知るのに参考になった。
そこで、大胆な推測をしてこのブログを書いたが、
的を得ているかどうか、興味を持って模索を続けている。

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